佐野実さんと周富徳さんが亡くなったのですね。
ともに糖尿病と闘っていたのだそうです。
仕事柄、食事のことについては考えさせられることが多いです。
好きなものを好きなだけ食べて早死にするもよし、出来るだけ節制して長生きするもよし。
我が師匠、色川武大には、<節制しても50歩100歩>という名文句があります。
人それぞれ、人生いろいろ。
「何にも食べられないから、何でも食べる」
そういえば、そんな風に言っていた糖尿病の知り合いもいました。
いずれにせよ、例えば入院をしたり、私が働いているような施設に入居したりすると、その自由は奪われます。
それはまぁ、仕方がないことです。
けれども、例えばお子さんたちは、自らの食事を選ぶことは出来ないわけですから、少なくともご両親は、糖質のリスクのことを認識しておかなければならないですよね。
それと。
野坂昭如さんの奥さん、暘子さんのエピソードをお伝えしたい。
昭如さんが病に倒れた時、お医者さんから、流動食なのかミキサー食なのかは忘れましたが、とにかく、そういう類のものを勧められたのだそうです。
まぁ、何らかの嚥下障害があったのでしょう。
でも、暘子さんは断固拒否したのだそうです。
私が介助するから、と。
それで死期を早めるようなことがあったとしても、それが昭如さんの本望なのだ、ということでもあったのだろうし、きっといろいろと勉強をされて、自分には出来る、という自信もあったのではないでしょうか。
凄いなぁ、と思うし、ここが大事なポイントだ、とも思います。
お医者さんとしては、誤嚥のリスクを避けたいわけだし、一方ご家族の立場としては、せめて食事くらいは、美味しいものを食べて欲しいと願う。
話は少々脱線しますが、こうした葛藤の中から、ソフト食というジャンルも生れてきたわけです。
介護の現場においていつも思うことですが、自らの意思で食事を摂ることができなくなった時、どうするのか、この重要な判断は、基本的にご家族が判断すべきことなのかな、ということ。
な~んて、細かく記すときりがないので、あえて曖昧に示しているのですが・・・。
2014年2月8日(土)の読売新聞の切り抜きを冷蔵庫にマグネットで貼ってあります。
「ひとつ気がついたのは、例の〝いのち根性がない〟ということ、生きようとするのは執着なのだと私はずっと思っていたのですが、どうもそうではないようですね。人が生きようとするのは意思、生命本来の意思として肯定さるべきことのようなのです」
池田晶子さんの言葉。
肝臓がんで亡くなる4ヶ月前に、共著者である大峯顕さんに宛てた手紙の中の一節だそうです。
池田さんの著作に接したことがある方ならば、この言葉の重みがわかって下さることでしょう。
「生きる」ことと、「よく生きる」ことは、同じなのか、違うことなのか、それはきっと、神のみぞ知ることだ。
同様に、「なんのために生きる」のか、その答えは、それこそ、人それぞれ。
ともあれ、出来れば、美味しいものを食べたいよね!
そうして、出来れば、健康も維持したい。
昨日、「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」という映画を観ました。
つまらない映画でしたが、ちょっと印象に残っているシーンがありました。
主人公がシスター向かって「もっと栄養のあるものを食べなよ」みたいなことを偉そうに言うのです。
するとシスターが、「私の血圧は上が○○で下が××、白血球と赤血球は△△なのよ、あなたよりよほど健康なの」って感じで言い返す。
主人公はぐうの音も出ません。
「考えて、知る」こと。
やはり大切なことですね、池田さん。
ともに糖尿病と闘っていたのだそうです。
仕事柄、食事のことについては考えさせられることが多いです。
好きなものを好きなだけ食べて早死にするもよし、出来るだけ節制して長生きするもよし。
我が師匠、色川武大には、<節制しても50歩100歩>という名文句があります。
人それぞれ、人生いろいろ。
「何にも食べられないから、何でも食べる」
そういえば、そんな風に言っていた糖尿病の知り合いもいました。
いずれにせよ、例えば入院をしたり、私が働いているような施設に入居したりすると、その自由は奪われます。
それはまぁ、仕方がないことです。
けれども、例えばお子さんたちは、自らの食事を選ぶことは出来ないわけですから、少なくともご両親は、糖質のリスクのことを認識しておかなければならないですよね。
それと。
野坂昭如さんの奥さん、暘子さんのエピソードをお伝えしたい。
昭如さんが病に倒れた時、お医者さんから、流動食なのかミキサー食なのかは忘れましたが、とにかく、そういう類のものを勧められたのだそうです。
まぁ、何らかの嚥下障害があったのでしょう。
でも、暘子さんは断固拒否したのだそうです。
私が介助するから、と。
それで死期を早めるようなことがあったとしても、それが昭如さんの本望なのだ、ということでもあったのだろうし、きっといろいろと勉強をされて、自分には出来る、という自信もあったのではないでしょうか。
凄いなぁ、と思うし、ここが大事なポイントだ、とも思います。
お医者さんとしては、誤嚥のリスクを避けたいわけだし、一方ご家族の立場としては、せめて食事くらいは、美味しいものを食べて欲しいと願う。
話は少々脱線しますが、こうした葛藤の中から、ソフト食というジャンルも生れてきたわけです。
介護の現場においていつも思うことですが、自らの意思で食事を摂ることができなくなった時、どうするのか、この重要な判断は、基本的にご家族が判断すべきことなのかな、ということ。
な~んて、細かく記すときりがないので、あえて曖昧に示しているのですが・・・。
2014年2月8日(土)の読売新聞の切り抜きを冷蔵庫にマグネットで貼ってあります。
「ひとつ気がついたのは、例の〝いのち根性がない〟ということ、生きようとするのは執着なのだと私はずっと思っていたのですが、どうもそうではないようですね。人が生きようとするのは意思、生命本来の意思として肯定さるべきことのようなのです」
池田晶子さんの言葉。
肝臓がんで亡くなる4ヶ月前に、共著者である大峯顕さんに宛てた手紙の中の一節だそうです。
池田さんの著作に接したことがある方ならば、この言葉の重みがわかって下さることでしょう。
「生きる」ことと、「よく生きる」ことは、同じなのか、違うことなのか、それはきっと、神のみぞ知ることだ。
同様に、「なんのために生きる」のか、その答えは、それこそ、人それぞれ。
ともあれ、出来れば、美味しいものを食べたいよね!
そうして、出来れば、健康も維持したい。
昨日、「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」という映画を観ました。
つまらない映画でしたが、ちょっと印象に残っているシーンがありました。
主人公がシスター向かって「もっと栄養のあるものを食べなよ」みたいなことを偉そうに言うのです。
するとシスターが、「私の血圧は上が○○で下が××、白血球と赤血球は△△なのよ、あなたよりよほど健康なの」って感じで言い返す。
主人公はぐうの音も出ません。
「考えて、知る」こと。
やはり大切なことですね、池田さん。