二年ほど前に護憲+グループの「戦時を語る」の中に書いたものを編集し直し書き込みます。
戦時を語ると言っても現代人には、面白くない話だと思いますが気が向いたら見て下さい。書き貯めたのを少しずつ掲載します。
また12月8日が来る。
何時ものように朝五時半に起きて、パソコンを開くとカレンダーは十二月八日を指していました。あっ今日は大東亞戦争の始まった日(昭和十六年十二月八日)だと、改めてこの半世紀前を振り返って見ました。
遠い記憶の中では、開戦の報道を家で聞いたのか、学校で聞いたのかは思い出せません。ただ家では並4音声のハッキリしないラジオが軍艦マーチを奏で「大本営発表」を頻繁にながしていたこと。「太平洋上で米英両国と戦闘状態に入れり」位しか頭の中に残ってなく、海軍航空隊による真珠湾攻撃、その後特殊潜航艇の活躍を聞くにつれ、少年時代の私が胸の高まったのは事実でした。
「鬼畜米兵」「進め一億火の玉だ」「欲しがりません勝つまでは」など、当時の国民は何の疑念もなく戦争に突入。日本は神風が守ってくれるとの先生の言葉を信用し、絶対勝てるのだとの信念で、耐乏生活も我慢をしていたと思います。
教育がそうさせたのか、当時の私は、国家のために命を陛下に捧げるのは当たり前だ、と思っていました。それが、昭和十九年、兄が戦闘機乗りになるために、駅に見送りに行った後の母の苦悩を垣間みると、大東亞共栄圏を謳って戦っている日本中で、多くの銃後の家族が、親兄妹が、戦いのために引き裂かれているのだな、と思うようになりました。しかし、それでもこの戦さには勝たねばならない、と思ったのも事実です。
戦後、色々言われる方が居られますが、当時国の政策に反対すればどうなっているかは、私の年代以上の方はお判りと思います。戦争の良し悪しはともかく、国の方針に従うのが日本国民なのです。ですから軍隊を作るような誤った政策は拒否しなくてはなりません。
皆さんはどう思われているか分りませんが、現在の北朝鮮の事を見ていると、当時の日本の縮図を見ている感じがして、北朝鮮があの当時の日本と同じ過ちをしてほしくないなと、彼の地から引き揚げて来た私は思っています。
昭和二十年八月十五日終戦の詔勅を京城師範の講堂で聞いた時、ただ茫然として居たのは事実です。今考えても、八月十五日のことは全く思い出せません。戦後、級友の集まりでこのことを聞いても、皆さん私と同じ状態のようで、ただ「腹が減ったことだけは憶えている」でした。
今は飽食の時代。戦争のため国家に命を差し出すこともない豊かな時代になると、人心も豊かになると思っていましたか、現実は全く逆で、その乱れは目を被うばかりの時代になってしまいました。
その原因については、政治家や識者が色々言っていますが、昭和十六年十二月八日の開戦と、昭和二十年八月十五日の終戦の日からの誤った民主主義の教育で、その狂いは始まったと、私は認識しています。私は戦後の教育は全く受けていません。戦後まだ有った徒弟制度の中で育った人間が見ると、そう感じるのです。
明治より、列国に負けないようにと背伸びして、少しづつ狂ってきた日本が、大きく狂いを生じはじめた昭和十六年十二月八日。同じ十六年十二月八日。昭和と平成の違いで、昭和十六年十二月八日が昭和の狂いの始まりですから、平成十六年十二月八日は狂った日本を元の道に戻す、平成の戻り道の年にしたいものです。
これが私の昭和十六年十二月八日の開戦記念考です。
筆者のビカビカの一年生・元山(ウォンサン)・感興南道元山府泉町小学校にて父が写す
戦時を語ると言っても現代人には、面白くない話だと思いますが気が向いたら見て下さい。書き貯めたのを少しずつ掲載します。
また12月8日が来る。
何時ものように朝五時半に起きて、パソコンを開くとカレンダーは十二月八日を指していました。あっ今日は大東亞戦争の始まった日(昭和十六年十二月八日)だと、改めてこの半世紀前を振り返って見ました。
遠い記憶の中では、開戦の報道を家で聞いたのか、学校で聞いたのかは思い出せません。ただ家では並4音声のハッキリしないラジオが軍艦マーチを奏で「大本営発表」を頻繁にながしていたこと。「太平洋上で米英両国と戦闘状態に入れり」位しか頭の中に残ってなく、海軍航空隊による真珠湾攻撃、その後特殊潜航艇の活躍を聞くにつれ、少年時代の私が胸の高まったのは事実でした。
「鬼畜米兵」「進め一億火の玉だ」「欲しがりません勝つまでは」など、当時の国民は何の疑念もなく戦争に突入。日本は神風が守ってくれるとの先生の言葉を信用し、絶対勝てるのだとの信念で、耐乏生活も我慢をしていたと思います。
教育がそうさせたのか、当時の私は、国家のために命を陛下に捧げるのは当たり前だ、と思っていました。それが、昭和十九年、兄が戦闘機乗りになるために、駅に見送りに行った後の母の苦悩を垣間みると、大東亞共栄圏を謳って戦っている日本中で、多くの銃後の家族が、親兄妹が、戦いのために引き裂かれているのだな、と思うようになりました。しかし、それでもこの戦さには勝たねばならない、と思ったのも事実です。
戦後、色々言われる方が居られますが、当時国の政策に反対すればどうなっているかは、私の年代以上の方はお判りと思います。戦争の良し悪しはともかく、国の方針に従うのが日本国民なのです。ですから軍隊を作るような誤った政策は拒否しなくてはなりません。
皆さんはどう思われているか分りませんが、現在の北朝鮮の事を見ていると、当時の日本の縮図を見ている感じがして、北朝鮮があの当時の日本と同じ過ちをしてほしくないなと、彼の地から引き揚げて来た私は思っています。
昭和二十年八月十五日終戦の詔勅を京城師範の講堂で聞いた時、ただ茫然として居たのは事実です。今考えても、八月十五日のことは全く思い出せません。戦後、級友の集まりでこのことを聞いても、皆さん私と同じ状態のようで、ただ「腹が減ったことだけは憶えている」でした。
今は飽食の時代。戦争のため国家に命を差し出すこともない豊かな時代になると、人心も豊かになると思っていましたか、現実は全く逆で、その乱れは目を被うばかりの時代になってしまいました。
その原因については、政治家や識者が色々言っていますが、昭和十六年十二月八日の開戦と、昭和二十年八月十五日の終戦の日からの誤った民主主義の教育で、その狂いは始まったと、私は認識しています。私は戦後の教育は全く受けていません。戦後まだ有った徒弟制度の中で育った人間が見ると、そう感じるのです。
明治より、列国に負けないようにと背伸びして、少しづつ狂ってきた日本が、大きく狂いを生じはじめた昭和十六年十二月八日。同じ十六年十二月八日。昭和と平成の違いで、昭和十六年十二月八日が昭和の狂いの始まりですから、平成十六年十二月八日は狂った日本を元の道に戻す、平成の戻り道の年にしたいものです。
これが私の昭和十六年十二月八日の開戦記念考です。
筆者のビカビカの一年生・元山(ウォンサン)・感興南道元山府泉町小学校にて父が写す