護憲+グループ・ごまめのブログ

護憲+・現憲法を守るグループの一人して、今後の社会の状況を戦時を経験した一人として社会を見つめていきたいと思います。

敗戦の日と世代交代

2010年08月16日 08時26分26秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
10年8月16日 月曜日 世代交代

敗戦の15日に読売新聞に弟と妹の二人の満州放浪記が載っていた。

しかし之を書いた女性の記者は若い記者なんだろう。戦中戦後を全く知らない人物が書くと当時の緊縛感は読み取れなかった。

毎年,敗戦近くになると各社は戦中体験記が書かれるが、本人の手記以外は記者の手を煩わす記事になる。しかし昨今のこの手の記事には戦時の緊縛感が感じられないのは世代が全く戦争知らない平穏な生活を送ってきた人物が書くからだろう。

考えると、日本は半世紀以上戦争とは関係のない平穏無事な生活を送ってきた。現在の戦争を知らない記者さんが殺伐な戦争の記事を書かない日本に成るためには。憲法9条だけは守ってほしいと感じた敗戦記念日だった。

しかし、一旦日本本土が戦争に巻き込まれると、新聞など発行ができなくなると云うことはサイパンや沖縄を経験した方々は分かっておられると思う



07年10月24日・水曜日  学徒兵 許されざる帰還

2007年10月24日 16時23分22秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
07年10月24日・水曜日  学徒兵 許されざる帰還
  
     

まず、書く前にあの戦争で亡くなった若者(正確には先輩)に感謝と祈りを捧げたいと思います。

 考えてみると、現在は防衛省の中に陸・海・空と三つに別れている。しかし昔の軍は、陸軍省と海軍省の二つだけで、陸と海が各々航空隊を持っていた。

 海軍航空隊の代表的戦闘機は零戦で、脚を同体内に収用できる開戦当時としては画期的な戦闘機で、性能は当時としては抜群だったと思う。

 一方、陸軍の戦闘機はこの番組にも出ている一式戦闘機・隼で、あの当時を思い起すと歌にもなった「加藤隼戦闘隊」今でも歌えるが「エンジンの音轟々と」だった。

 しかし、私の頭の中には特攻機と言えば何故だか海軍のことばかりだった。何故かと云えば兄が海軍の特攻要因だったからだろう。

 しかし、命を長らえ復員してきた兄に聞くと、終戦前は練習する飛行機はなく、本土決戦に向けてベニヤで出来たモーターボートで敵艦に突っ込む訓練で、その燃料も侭ならない戦後になって考えると、あれでは戦争に勝てっこない。   
 あらためて考えると国家から何の情報を知らされなかった国民が犠牲になっただけと苦笑いしていた。

 親の生死が分かった時に、兄と死について話しあった。特攻として死について恐怖はなかったかと問うと、憮然として「恐くのない者があるものか」と一喝されたのは忘れられない。早死にした兄が生きていれば、当時の詳しいことを聞けると思うが、嫌な思い出は話してくれないかも分からない。

 本題に入るが、戦後の話で海軍は突こめなく帰ってきた隊員は日を改めて特攻に出撃したと聞いていたので、恥ずかしながら、この放送で初めて陸軍には特攻作戦で死ねなかった隊員を収容する振武寮なるものを知った。
 当時から、海軍より陸軍の方が兵士は消耗品あつかいだと聞き及んでいたが、この番組でそれが証明できたと思う。

 大貫健一郎さんは戦後今までこの話を封印してきたと言っておられた。生き残られた隊員の方も、此のような話はしたがらないとおもうが、良くはなされたと思う。

 番組では機体の故障や整備不良と言っていた。当時を考えると家庭の鍋釜まで供出した時代。原材料の全くない日本。整備する兵士もベテランの多くは長い戦闘で消耗して整備もままならない時代だから当たり前だと昔を知る人間はそう思う。しかし当時を知らない現代人はどうとるのだろうか。

 私の先輩も、特別見習士官になって沖縄で散っていった。此れ等の若者は,殆ど二十歳前後の若者たちなのだ。彼等の遺書集も見たが私たち年代の人間には涙なくしては見られない。

 
 私は国民のみなさんに考えてほしいことは、戦争には正義というものは120%いや全く存在しないということだ。
 現在のアメリカでも正義というものは20%程だろう。

 世界で軍隊を持っている国家で紛争地で戦死した政治家や司令官の話を聞きますか。
 戦時中でも玉砕した所は別として、山本五十六連合艦隊司令長官は特別、犠牲になった人々は善良な庶民がほとんどなのです。

 その善良な兵士も、命のやり取りする戦場では人格が変わります。その結果が、戦後BC級の戦犯という形で罰を受けているのです。

 考えてみましょう。もし日本が勝っていれば、BC級の戦犯の人々は英雄だと崇められたでしょう。

 だから、戦争は絶対に避けねばならない。軍の力で世界を征服しようとする国家と手を組むぐらいなら、少々不自由はしても人間らしく余生は生きたい思う今日この頃である。


07年10月23日 火曜日  まだ戦後は続いている。

2007年10月23日 17時37分51秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
07年10月23日 火曜日  まだ戦後は続いている。

 21日の日曜日にMBSとNHKで、二つの全く異なった戦時の放送があった。

 MBSは元シベリア抑留者の石元砂雄(83)さんのシベリア抑留時代の当時の体験談。多くの兵士が過酷な条件の中で多くの戦友が餓えと重労働の中でばたばたと亡くなっていく。
(シベリア抑留者は・約60万人といわれている)

   

 私も忘れていた、この話をしても現在この現実を知っている人は人口の何%いるのだろうか。間違ったているかも分からないが、当時、ラーゲル?でろくな食料も与えられずバタバタと多くの兵士が死んでいったという遠い昔の話。
 そして,亡くなった戦友の屍骸は褌一つにして埋める。普通死者は埋葬と言うのだが、埋葬とは云えるじ容態でない当時の模様。死者の着ていた物は生きている者が生きるがために頂戴する悲惨な状態だったと当時を彷佛しながら語られていた。
 これは、満州を放浪していた弟も同じようなことを言っていた。

 その中で生き延びた兵士が日本に帰ってからの政府の対応が、いかに冷たいものだったか。

 舞鶴に上陸した時に、市役所からはたった二人しか出迎えてなく、腹が立って文句を言うと、「警察は共産党がかえってきた」といわれ、マークされてまともな仕事には付きにくかったと当時を懐古されていた。
 考えると、その当時に「シベリアから帰される元兵士は、共産主義を叩き込まれた人間だけが帰されたのだ」と言う実しやかな話も思い出した。

 1989年に抑留経験者が、その当時の強制労働の保証を求めて法廷闘争をした。(なぜ政府に強制労働の金銀未払いの賠償請求をしたかは省く)しかし東京地裁は訴えを破棄。

 長くなるので番組の経緯はこのくらいにしますが、私我は腹立たしく思うのは、戦争に負けたのは致し方ない。兵士として戦場に出るのも負けて捕虜になるのも仕方がないことだろうと思う。

 しかし、この兵士たちがやっと日本の地に降り立った後の政府の対応なのだ。

 テロップ参照・1 (ここをクリック)

 南方から復員してきた軍人は帰還兵に労働証明書を渡していたので、未払い賃金を渡している。しかし、ソ連は負けた国の兵士は奴隷と同じだと労働証明は渡さなかった。
 しかし、エリツィン大統領になって送ってくれた証明は国家として認められないということだ。
 考えると、関東軍は沖縄のような大きな戦には成っていない。しかしシベリアに送られた弟にいわすと、逃げた兵士でなく先頭に立って体した武器もなく戦った兵士なのだ。

 そして、シベリア組に送られた組は参照の中にある、たった三行26文字の証書と特別慰労品なのである。

 テロップ参照・2 (ここをクリック)

 石元砂雄さんは、生き残りの仲間を集めて再度訴訟をおこす準備をはじめておられる。
 なぜなら、極秘文書として当時の関東軍司令が、ソ連の「ワシレフスキー元帥にあてた文書が見つかったからだそうだ。
 テレビでは文字を大きく映し流していたので部分的にとりだして一つに纏めてみた。

 之を見ると、関東軍の司令は、部下たちは煮て食おうが焼いて食おうがご自由にといっているように感じ、番組のプロジューサーは全文読めるのてそう解説していた。

 この司令のこの文章、そして戦後、命をとして戦った兵士への態度、国家が命を掛けて戦った保証が、感謝の言葉もない国家を感じ本当に腹が立たされる番組だった。

 今、特措法で揺れている。給油も20から80の間違えを気付かなかったなど嘘は見え見えだ。
 これではシビリアンコントロールは出来ないだろう。

 また、其れが本当だとすると、其の様な間違いを犯す軍隊など、どこと戦争をしても負けるに決まっている。

 この番組は、満州から帰ってきた人々には、関東軍について複雑な思いで人それぞれに違う感情があると思う
 
 しかし、負け戦の悲哀を骨の髄から味わっているとまではいかないが、何時もいっているが此のシベリア帰りの元兵士のような庶民なのだと言うことを再度認識さされる番組だった。

 やはり、地球上に軍隊というもがあっては、もめ事や戦争は無くならないと感じた。

 明日は、学徒兵の見聞記を書きます。


第6部  京城と総括編  この5

2007年10月15日 15時55分19秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
第6部  京城と総括編  この5

 妹は、今まで心の中に溜め込んだ事を吐き出して、すこしは気持ちが楽になったのかも分かりません。
 お兄ちゃんには絶対言わないでと、家内が言っていましたのでそれに従おうと思いました。

 また、弟の気持ちも分かり過ぎるほど分かります。親が、子供を預けたり食料に交換したりする。現在の人々には分からないでしょう。
 其の様な逃避行のなかで、小学校6年生の子供が、3年生の妹と二人で日本に帰ってきたと言うだけで奇跡だと思います。
 だから弟も責めることはできません。

 また妹の気持ちも痛いほどわかります。千キロ近く兄を信用して満州の荒野を移動する。これを書いていても、弟妹と再会した時にはガリガリの栄養失調、疥癬だらけの皮膚、思い出しても涙が流れてきます。

 弟は、近所に住っていますから、月に何度か散歩がてらに寄っていきます。でも引き揚げ船に乗船する前の妹が言っていたような話はしたことはありません。
 と言うことは、弟にも心の中に傷として残っているのかも分かりません。しかし、それを確かめることにより、弟の傷口を余計に深くする恐れも有ると思うからです。弟妹たちの傷口をもう此れ以上大きくするのは兄としてたまらないのです。

 先に述べたように私は朝鮮で強制的に連れていかれる情景は見ていなく聞いてもいません。先日、学生時代の友人と電話をした時にこの件を聞きましたが私と同じことをいっていました。

 ですから、売られて行った娘さんも戦後かえってきた時に親御さんが、弟と同じ心境だとすると本当の話をしたでしょうか。弟のように自分の負の部分は話さないと思うのです。

 しかし、前線に慰安所が有ったことは事実です。
 私は先に述べたように、朝鮮領内で官憲が強制的に婦女子を集めれば暴動のおこる可能性をしてきしましたが、敗戦前は其のくらい緊迫したのを感じました。

 私が一つ思い当たることは、当時女子挺身隊と言うものがあったと記憶しています。これが何をしていた物かは全く分かりません。
 従妹が挺身隊に行こうと言うと親がもの凄く反対していましたから。当時はかなり危険な事をするのだと思っていました。
 引き上げて一時世話になった娘さんは戦地で将校相手の今でいう慰安婦と言うことは分かっていましたが、彼女も女子挺身隊員だという記憶があります。しかし半世紀以上の昔の話、嫌な思いは自分から進んでは話さないでしょうし、80以上の老齢か亡くなっているのが現実なのです。

 関係者の殆どの方が亡くなり、此の様な思い出したくない話は、弟と同じく心に鍵をかけて真相は益々わかりにくくなります。

 問題はどうして多くの朝鮮の女性を集めたか。私の見た範囲では朝鮮で官憲が強制的に連行したのは見ていない。しかし現実には売られていく姿は見ている。そのギャップの整理が頭の中でつかないのです。

 と言っても強制連行を軍隊という暴力集団が全くしていないともおもわないが、もしかすると誰かに代行をさせて騙して連れ去っていると言う予測は出来ないことはない。

   


第6部  京城と総括編  その4

2007年10月11日 15時43分58秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
第6部  京城と総括編  その4

 一番売られていったのが確かな我が家の「ねえやさん」に付いて考えを巡らすと。

 泣きながら売られていった彼女たちが戦後親元に帰った時に親たちは娘さんにどう説明したのでしょう。
 親は絶対に売ったとは言わなく他の説明をしたと思うのです。ひょっとすると私の父がどうしても借金を返せと言うので、しかたなしに売ったのだと説明するかもわかりません。

 戦後、多くの日本人孤児が日本に来て家族捜しをしています。しかし、親が名乗り出なく帰っていく可愛そうな孤児がいます。
 何故だろうか。小学校6年生で満州を放浪して帰ってきた弟は、このように説明しています。

 満州で放浪中に餓えで、幼子を食料に変えた日本人が大勢いた。だから親とは名乗っていかないのや、自分が生きるために子供を売る親は私が親だと名乗れないのだと言っています。

 私は、之には反論はできません。
 なぜなら、此の弟にも心の傷があるのです。いぜんこのブログにも書きましたが、小学校6年生の弟と小3の妹が放浪の最後に妹をほったらかして、自分だけ最終の引き揚げ船に乗ろうとしたらしいのです。

 兄として、この二人を見ていると生死の境を彷徨いながら幼い二人が日本に帰っていたのに余り仲の良い兄妹ではありません。なぜだか分かりませんでしたが、先日その原因が分かったのです。

 一昨年、家内が妹と長電話している時に家内が
「なぜ貴女は下の兄さんを毛嫌いするの」
と今まで気になっていた事を聞いたらしいのです。すると
「今まで誰にも言っていなかっただけど聞いてくれる」「もう歳だしいつ死ぬかも分からないから死ぬまで誰かに聞いてほしかったのや、姉さんだけ聞いて、でもお兄ちゃん(私の事)には言わないで」
 妹は、私がこのことを知る事によって、どのような行動に出るかが心配だったのかも分かりません。

 家内は涙を浮かべながら二時間ほどしゃべっていました。
 前にも書きましたが、重複すると思いますがもう一度書いてみます。
家内からの話を要約すると内容は
「引揚船に乗る直前になって、お兄ちゃんが『そこに待っとけよ』絶対に動いたらだめだ」
といって居なくなって一時間ほど待っても帰って来やへんのや、不安になって泣いていたら、知らないおっちゃんが、
「どうしたの」
と聞いてくれたので、
「お兄ちゃんが、ここで待っておけ,ぜつたいに動いたらだめだと言ってあっちへ行って、まだもどって来ないの」
というと、
「日本に帰るのだろ、船に乗るのなら、最後の引き揚げ船だから速く行かんと乗れなくなる」

「船着き場まで連れていってくれるたんや、そうしたらお兄ちゃんが皆と一緒に並んでいたんや」
傍に行くと
「あっ来たのか」と
一こと言っただけであっちを向いていた。
「お兄ちゃんは私が手足まといになって、私を捨てて帰ろうとしたんや、
それが何時までたっても心の端に残っているんや」
と戦後半世紀の間、心に溜めていたことを切々と家内も泣きながらはなしていたようでした。

以下次回

第6部  京城と総括編  その3

2007年09月16日 17時11分57秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
第6部  京城と総括編  その3

 私が物心付いてから終戦までの事を一通り書きました。

 その中に書きそびれましたが、植民地を統治する朝鮮総督府は、大東亜戦争が始まって一年ほど経ってから日本人との差別が緩和されてきた感じです。
 その一つに朝鮮人と並んで配給物品をうけたことです。
 それと、官立の師範学校にも朝鮮人の教師が3人程奉職していましたし、朝鮮人の学生にも官費やその他色々なものは同じように支給されていました。

 しかし先に書いた、日本が負けるという情報を流す。之などは日本に従う態度を見せながらも地下組織があったと思います。

 ここで、本題に入ります。
 ブログには従軍慰安婦のことが書かれているものがたくさんあります。昔は従軍慰安婦と言う言葉は有りませんでしたから、私は使いたくありませんが、使わなくては話が見えにくく成るのでやむを得ず使います。戦後、此のような新語を創る人間がいるのでこの問題を複雑にしているところがあります。
 それは、昔の郭などの遊女制度を知らないものが、従軍慰安婦という言葉を聞くと違法でないものも違法に感じるからです。

 しかし、外地で春をひさぐ施設や女性の居たことは間違いない事実です。
 そして、そこに働く女性を私たちは確か「ピーさん」と読んでいた記憶があります。しかし、そこで働かされている女性は朝鮮人か日本人かの意識は全くありませんでした。「ピーさん」も先輩から教えられた言葉だと思います。

 当時は朝鮮でも私の住っていた都市には遊郭は有ったようです。
 吉州では朝鮮人の日本でいうキーセン(花魁)が禿を従えてが我が家に来たことがあります。
 その時聞いた話ですが、日本での芸者と遊女の違いで、キーセンは格式があり、カルボはただ体を売るだけだと言っていたと思いますが信義は不明です
 だから朝鮮人だけの遊離はあったようです。

 昨年のイラク訴訟後の集まりの時、若い女性の方が、従軍慰安婦問題を取り上げ、朝鮮に行ったとき従軍慰安婦の方が、泣きながら強制的につれていかれたと訴えてたと言っていました。
 それも自分が恰も拉致を体験したような口振りなのです。

 朝鮮で生まれ育って狭い範囲ですが、軍人や官憲が女性を集めたという話は聞いたことは一度もないのです。
 戦争後半で、地下組織が動き出した気配がある時、官憲が女性を強制的に集めれば、私は暴動が起こっていたと思っています。
 そうなると戦争は内部から破壊が始まり戦うことが出来ませんから、いくら軍部でも大っぴらには子女を集めないと思います。

 以前、テレビで金美齢も、もし台湾で強制収容があれば暴動が起こっていたと私と同じことをいっていました。
 しかし、大勢の女性が体をひさいでいたのは間違いない事実です。その女性をどうして集めたかが問題なのです。
 当時は、売春は合法ですから、売られた (年期奉公)ものでしたら合法的でしょう。

 もう一つ、我が家では二人のねえやさんが、親に売られたのは事実です。それと私が見た、売られていく同じ民族の女衒に手を引かれてつれていかれる娘さんどう判断したら良いのでしょうか。
  
 以下次回。



07年9月16日
メディアのイラスト・グラフ・テロップ集は (ここからお入り下さい)

第6部 京城と総括編  この2

2007年09月03日 20時26分01秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
第6部 京城と総括編  この2

 終戦の玉音放送は師範学校の講堂。それから進駐軍が京城に入って、武装解除が終わるのは敗戦後3日ほどだと思います。
 その間、空には日本の戦闘機が乱舞し、地上には戦車が走り回っていました。
 下宿の外の総督府前の大通りに朝鮮民族が、「バンセー・バンセー」とどこともなしに大勢集まり其れを軍隊が戦車で蹴散らかしていた光景は今でも瞼の中に残っています。

 それと、将校が抜刀して群衆の中に切り込んでいくのを見ましたが、恐くなって下宿に帰り結果は見ておりません。

 8月の終わりに、京城在住の親類が一所に集まることになり、新聞記者の従兄弟のところに集まりました。
 ここで、一つの出来事がありました。ある日、数人の屈強な朝鮮人が訪ねてきて家を明け渡せと言うのです。記者の弟の従兄弟か対応していましたが、何か一言二こと言った途端に袋だたきに遭いました。
 彼が総督府に勤めていたと言うだけだそうですが、一月ほど起き上がれませんでした。

 この従兄弟は、病弱で独学で高等文官試験をとり、4月に奉職したばかりなので、殴った朝鮮人の顔も知らないと言っていました。

 此所で,朝鮮に入植した日本人の分析をしてみます。

 1・明治に植民地に成って入植した人たち。
   これは私のお爺さんやお婆さんがこれに当たります。
 
 2・そして日本生まれで親に連れられて子供の頃親と一緒に朝鮮に渡った者。
   それは、私の両親がそれに当たります。
 
 3・それから私のように朝鮮で生まれて朝鮮で育ち本土を全く知らない子供たち。

 4・植民地として安定してから朝鮮に渡ったグループ。
 日本の行政が定着し、仕事のために初めて朝鮮に足を踏み入れた、このグループは朝鮮人を蔑視していたグループだとおもいます。この人々は戦後、朝鮮人を軽蔑していたのが恐かったのでしょう慌てて、そそくさと引揚げていきました。

 子供の頃から入植している2・の私の両親のグループは、上流社会の朝鮮人と下層階級の朝鮮人との付き合い方を分けていたように感じます。しかし、気心がしれると誰でも普通に付き合っていたようです。

 3・のグルーブ朝鮮で生まれた朝鮮二世、所謂私たちのグループは、朝鮮語は分からなくても、物心付いたときから二つの民族の住っている中にいるので、何の違和感もなく日朝混在の中に溶け込んでいるので、そう違和感はありませんでしたが、心の隅っこには日本人だという自負はあったと思います。
 其の朝鮮二世の日本人の中に、都会でなく日本人の少ない田舎育ちの子供の中には朝鮮語をは話せる者も居たようです。朝鮮の子供たちと遊んでいたからでしょうか。
 考えると、私でも、オンマ(お母さん)アボジ(お父さん)コウマブソ(ありがとう)など20語ほどの単語は遊びの中で覚えています。

4・のグループがなぜ朝鮮人を蔑視していたか。
 その原因が、日本に帰って分かったのです。それは上流社会族ほど朝鮮人を蔑視している。それは,引揚げて帰ってきた日本人の私にでも,朝鮮で生まれたのだからと、名前を呼ばずに・朝鮮、朝鮮・と結婚してからも呼んでいた人間がいましたから、本国の日本人の朝鮮人に対する扱いがどのようなものかは分かった感じです。
 これは、私が孤児だったからかも分かりません。普通の方々は、孤児だからと大切にしてもらいましたが、上級教育を受けた人物ほど私を馬鹿にしていたのは今でも忘れられない思いです。

 だから、この4・のグループは、日本本土で朝鮮人を軽蔑した中で生活していた人物が、朝鮮に渡っても日本に居る時と同じ感覚で朝鮮人と接触していたと推測がつきました。

以下次回


第6部 京城と総括編  その1

2007年08月28日 16時46分32秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
第6部 京城と総括編  その1

 同窓会誌の中に、朝鮮の鉄道駅名の図形がありましたので、貼付けておきます。
その1北部編(咸鏡北道) (ここをクリック)
その2南部編(咸鏡南道) (ここをクリック)

 師範学校の寮生活で体を悪くして下宿生活をすることになりました。

 町の名前は長谷川町、母からの最後の手紙を持っているので其処の住所はそれに書いていますが、何故だかこの頃の記憶は忘れていません。

 その場所は,朝鮮総督府前の大通りを南大門に向かってY字道路の分かれた突き当たり所に有りました、そして、そこは中華街になっていて、その真ん中に下宿はありました。
  
 周りは中国人の中華料理屋が2~30軒ほどかたまっていて、今でいう横浜や神戸の中華街程では有りませんが、中国人租界の様な感じになっている場所で、食料事情が悪いときでも、裏に回れば結構何でもあったのが今でも不思議な感じがしております。
 気を許せる様に成ると、マントウ(豚マン)も手に入り、お陰で此処に下宿してからは、お金さえあれば余り腹ぺこは経験していません。

 ここの下宿は、京城帝大それに京城歯科医専と京城師範の生徒が20人程下宿していたと記憶しています。

 少し当時の師範学校について説明をすると、京城師範は朝鮮では唯一官立でしたので、毎月官費は国家から支給されていました。
 確か、当時の先生の初任給は60円ほどでしたからその70%ぐらいで、毎月の下宿代を支払ってもお釣りがくる金額40か45円程だと記憶しております。(現在の先生の初任給から計算してみて下さい)
 ですから、官費が支給されると、下宿の二回から中華屋のおっさんに声をかけ、二階の窓からマントウや餃子を手渡してもらったものでした。

 あの物資の少ない時に、彼等は民族間の裏で何かがあったのだと思います。
 いま思い出すと、昭和19年の冬休み前に一人の中華屋のオーナーの中国人が、憲兵に殴られ連れていかれました。聞くともうこの戦争は終わると言っていたのが官憲の耳に入って連れていかれたらしいのです。

 恵山鎮編に書いた、父に朝鮮人の行員の一人が、「日本は長くは持たない」と言いっていた事を合せて考えると、この時、昭和19年後半頃から朝鮮の地下組織動きが活発に成って来たのだと思います。




第5部  恵山鎮編   その2

2007年08月23日 20時19分07秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
第5部  恵山鎮編   その2

 此所でも売られていく朝鮮人の娘さんを見たのです。学校帰りに友達と近道を通って帰宅途中、泣きながら連れていかれる朝鮮の娘さんを見かけました。連れていった女衒は朝鮮人でした。
 よく見ると露地からでて数人の家族が泣きながら送っているのです。
 朝鮮語の分かる友が、
 「あれは、人買いに売られたんだ」
と説明してくれました。
 小さい子供の中にはパンツも履いていない子供もいましたから、朝鮮民族は可也貧富の差が有るように感じた町でした。
 それは、小さな町ですから町の裏まで見聞できたからかもわかりません。

 面白かったのは、冬になり春近くなると氷柱が二メートル近くも長く成長するので、毎年落ちてきた氷柱で大けがする者がいました。

 此処ぐらい標高になると、春秋はほとんどない感じで、夏の終わりにはオンドルやペチカの燃料にするために、大人二人が抱えるほど、高さは50~60センチほどの丸太を割るのです。 
 面白いのは、この丸太を20個ほど地べたに並べ、荒縄で何重にも周囲を取り巻き固定して、その上に乗って斧(普通の斧でなく金太郎さんのまさかり状)でわるのです。朝鮮人の専門職の方が割るのですが斧が重いので、その太い丸太は一発で丸太は真っ二つ。荒縄で固定していますから割って細かくなっても崩れません。
 初めての冬の時はこの光景が面白く一日眺めていたものでした。

 これは、戦後弟から聞いた話です。
 当時は京城に出ていましたから分かりませんでしたが、ある時、父が朝鮮人の行員の一人が、「日本は長くは持たない」と言いっていたと憤慨していた。今考えると正解だと言っていました。
 考えると、師範学校でも朝鮮人の友が、同じような事をいっていたのをその時思い出しました。
 考えると、地下に潜ったスパイ組織が、敗戦が近くなるに従い活動しだしたのだなと敗戦になって弟の話を聞いて気が付くしまつです。

 私の国民学校(小学校)生活はこの恵山鎮が最後です。ここで今まで通った小学校の規模を書いておきます。

 元山は 一学年 3組 白組(男子)青組(男女共学)赤組(女子)30~40名
  元山には、もう一つ日本人学校があったと記憶しています。
 吉州は 一学年 一クラスのみ(男女共学)30人ほど 
 城津は 一学年 二クラス(男子クラスと女史クラス)

 この小学校の規模を見ていただくと、都市の大きさと日本人の入植者の規模の予測できるでしょう

第5部  恵山鎮編   その1

2007年08月21日 16時53分43秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
第5部  恵山鎮編   その1

 この町の国民学校(小学校)は新しく平家建ての校舎で、各学年一クラスの男女共学で26人くらいのクラスで、高等科二学年を入れても八教室しかありません。
 それに反して、同級生の父親が校長をしている朝鮮人の学校は各クラス二学級あり一学級も40人ぐらいの編成でした。

 この小学校に父につれられ校門を入ると、私のあだ名をいう声が聞こえるので、そちらを見ると、吉州時代の友が三人もいるのです。転校する度に、どのような学校かと緊張していますが、それがいっぺんで解消。
 
 ここは鴨緑江の上流で、昔よく歌われていた白頭山節(朝鮮と支那と境のあのおうりょっこう)。山頂に火口湖を持った白頭山の裾野の町で極寒時には零下30度にもなる所でしたから、日本人が少なかったのだと思います。

 この国境の町は昭和の一桁の時代までは匪賊が現れていたそうです。その名残に町の周辺に望楼がいくつか有ったのを覚えています。

 もう一つの特色は、大森林地帯ですから、その材木の輸送手段に筏を利用していました。関西の十津川出身の筏師の方が多く、だから奈良県には同級生が数人います。

 この鉄道は、吉州と恵山鎮の間の(吉恵線)という支線で、高度が高いので、機関車は前後に装着され、ジグザグ登っていく所があります。上から見ると下に次の駅が見えるのです。だから直線的には短い距離でも30分程時間がかかる難所が有ったのを記憶しています。

 この恵山鎮は、転勤した都市の中で一番人口の少ない都市でしたから、今までの中では規模の大きい日本人街を作ってなく、両民族が一番混在している町だったと思います。

 お米の配給も、朝鮮民族も一緒に並び、お米を升で量って入れてくれる販売員はオモニでした

 不思議なことに、日本の領土内の朝鮮側は、食料などは不足していましたが、鴨緑江の国境の橋一つ渡った対岸の町、長白に行くと、甜菜(砂糖大根)で作ったお砂糖があるのです。
 そして、お饅頭屋さんもあり、緑豆春雨など食料は朝鮮側よりほうふでした。本当は、国境を越えて持ち込んではいけない物も有ったようですが、日本人はフリーパスのようなものでした。

第四部 城津編

2007年08月17日 16時57分44秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
私の過ごしてきた朝鮮時代の体験記

第四部 城津編
 
 この城津に新しい銀行の支店を開設すると言うことで急遽転勤することになった都市は、吉州から二時間ほど汽車に揺られて行く港町が城津です。現在のJRの新快速でしたら吉州と城津は15分しか離れてない近距離です。
 吉州より人口は多い都市でしたが、吉州のようなパルプ工場のような企業が無かったので、それまで銀行の支店がなかったと思います。
 しかし、この隣町に高周波という特殊鋼の工場ができたので支店の開設になったのではないかと今になって感じています。

 先日のミサイル実験などは、テレビ放送で上空写真が出ていましたが、吉州や高周波が関わっていると言うことは、テレビで見せてくれた写真でよく分かりました。

 ここでは、急な転勤で社宅はなく。元・憲兵隊跡を仮の住まいにしていましたから、部屋数は4つですが、大きな20条以上もある事務所が4つと、留置場があり、慣れるまで夜中は恐くてたまりませんでした。でも子供にとっては良い遊び場で、ドロボーごっこでは留置所か役に立ちました。

 城津はたった半年でしたが、ここで忘れられない思い出を三つかきます。

 一つは、イカの豊漁で、近所のおばちゃん七・八人でスルメを作ろうということになり、四つの広い事務所いっぱいにイカの開きが干されていたこと。

 もう一つは、父が銀行に泊まった日に、大声を上げた男が表を叩いて、二つの扉の一つを破って侵入しかけたこと。兄は長男なので、次男の私が裏の窓から、裸足で父の銀行までは知って行ったこと、今のように一般家庭には電話がなかった時代、落ち着いたら震えが止まりませんでした。
 
 最後の一つは、私のクラスに一人の朝鮮民族生徒がいました。

 ある時、この友達と浜辺で遊んでいると二人の朝鮮人の子供が彼と一言二言話しているうちに殴り合いになったのです。1対2では勝負にならないので応援に入ると、「イルボンナー(日本人)はあっちへいけ」と、友もいっしょに言うのです。
 結局、友は完膚なきまでに叩きのめされましたが、落ち着いて原因を聞くと
「朝鮮民族のくせに日本人学校に通っている民族の敵」
と言うことで、勝負する事になったと言っていました。
「だから、日本人の君に入ってもらうと、朝鮮民族の沽券に関わる」
といっていました。
 今改めて考えると、日本人学校に通っていた彼でも朝鮮民族の血が通っていたと言うことでしょう。


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第三部 吉州編 その三

2007年08月14日 17時04分26秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
第三部 吉州編 その三

 吉州にきて、狭い町ですから分かったのですが、小学校は日本人小学校と朝鮮民族の小学校があり、朝鮮人も皆、義務教育で普通の家庭の子供は小学校には通っていましたから、朝鮮民族の子供たちは日本語をマスターしていました。

 どうなんでしょう。元山の小学校では経験していませんでしたが、他の小都市の日本人小学校には一人か二人朝鮮民族の子供が一緒に勉強していました。

 官立京城師範学校では、定員の一割は朝鮮民族を入れなければ成らない規則が有ったようです。大勢のか中から入れる学生は頭の良いものばかりで、席次は上位の者ばかりだったと覚えています。

 面白いのは、母は片言交じりの朝鮮語と日本語を入れた会話。朝鮮民族のおオモニは、片言の日本語を交えた朝鮮語で話していました。朝鮮の子供たちは日本語を話せますから、親が分からないところは通訳をしているよう、結構意志は通じていたようです。
 日本人でまず覚える言葉は、
「イゴオルマヨ・これ幾らですか」「コーマブスミニダ・ありがとうございます。」「アンディヨ・駄目です」
 それと、モジョリ「ばか」
まず最初に覚える言葉は生活に密着した言葉のようです。
 でも韓国語を知らなくても、朝鮮人が日本語を覚えるのか早いというのか、朝鮮人が日本語を知らなければ住みにくく成りつつある朝鮮半島だと今思うとそう感じます。

 ここでも、子供の遊びに「イゴリチョゴリ」がありました。

 この都市には水道は完備されていなく、其の為か家庭風呂はなく、銭湯に行ったり豪商宅に貰い湯した覚えは頭の中に残っています。日本人も朝鮮人も混浴でしたが、朝鮮人でもそこそこ裕福な家庭の人が入浴に来ていたと思います。

 この都市(吉州)で朝鮮のヤンバンサラミの豪邸に我が家の家族が招待されましたが立派な御殿で、ただ、びっくりしただけ。

 街全体の印象は、表通りは日本人が押さえられていて、裏町に朝鮮民族が住っていたと思います。これも日本の権力のせいでしょう。
 私たちの住っていた社宅は、町外れに成りますので、朝鮮民族と混在して生活していたので、此れが良い人生経験に成ったと思っています。

 吉州編おわり





私の過ごしてきた朝鮮時代の体験記  第三部 吉州編

2007年08月12日 18時04分27秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
私の過ごしてきた朝鮮時代の体験記

第三部 吉州編 その一

 次に移った都市は、吉州です。
 ここは、巨大なパルプ工場があり中くらいの都市だった。日本人の居住者はパルプ工場せいか多かったようです。
 父は、ここの銀行の支店長代理で赴任しました。そして此所の支店長は東大卒の朝鮮の方なので朝鮮人でも支店長になれるのだと日本人の子供としてはびっくり。
 また、邑長(郡長だと思います)も朝鮮民族でした。なぜに覚えているかといいますと。護憲+の戦時中を語るにも書いていますが、出征兵士を送る時、神社に壮行会に集まった時に、「天皇陛下ばんざい」を「でんのうへいがぱんちゃい」と訛ったので、それを真似して一斉に「でんのうへいがぱんちゃい」と全生徒がやらかして、大爆笑。その為、学校へ戻ってから長い間、説教と講堂に正座させられたので、今もって忘れられない思い出として残っています。

 ここでは私たち家族の住居は、日本民族と朝鮮民族が混在している場所で、朝鮮人の出産に産婆さんが間に合わず、近所の朝鮮の方が母に助けを求めてきて無事出産を終えてからは、我が家と、ご近所の朝鮮民族の家族の関係は、以前にまして、ものすごく良くなったと言うことは、民族間でも人間同士の付き合いをしていると、個人個人の間では何の垣根もないと言うことの証明だと思います。

 母は、ここでキムチやカクテキの付け方を教わって、朝鮮民族と同じように大きな土瓶を土中に埋めてキムチを漬けていました。
 キムチはヤンバンサラミ(お金持ち)ほど高級材料を使うのでおいしいキムチができるそうです。

 転勤で次の都市の城津に行く時は、近所のオモニ(おばちゃん)は喜んで母のつけたキムチを分けていました。
 
 ここで、見た光景の一つは、この(町内)の中で娘さんが売られていきました。冬休みの出来事です親子ともども泣いていましたが、やはり生活に困窮していたのでしょう。
 連れていった女衒は日本人ではありません。朝鮮民族の男でした。






私の過ごしてきた朝鮮時代の体験記 第二部

2007年08月10日 17時57分55秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
私の過ごしてきた朝鮮時代の体験記

第二部

 先ず、私が生まれて、物心が付いてからの生きてきた38度線以北の日本海側の朝鮮の情況を思い出しながら書いてみることにします。
 
 私は北朝鮮の元山(ウォンサン)に生まれて父の転勤で京城を含め5ケ所の北朝鮮の日本海側の都市で暮らした経験ばかりです。父も母も挑戦に渡ったのは少年期のようで、親に連れられ明治時代に元山に渡っているようです。明治の終から大正年代は暴動もあって怖かったと母からよく聞かかされました。

 私は昭和の初期の生まれなので、物心付いてハッキリ記憶が残っているのは昭和一桁の後半の頃からで、官立京城師範学校に行くまでは、38度線以北しかしりません。

 だから一番名古い記憶は元山(ウォンサン)です。ここでは朝鮮人の不穏分子と言われる朝鮮人(男性)が特高に捕まるのを一度見ました。其の時は逮捕された家族がものすごく抵抗して殴り倒されている光景を見ました。それ以外は泥棒など犯罪行為で警官に連れて行かれるのを見た以外は何の異常も感じたことはありません。
 と云う事は、その時代は植民地政策も安定期に入っていたのでしょう。
 しかし、元山の湾内(確か・えいこう湾)は準軍港で軍艦が出入りしていましたし、昭和10年代に海軍航空隊の飛行基地が出来ましたので治安は厳しかったと感じています。

 まず、元山で体験したことを書いてみます。
 戦時を語るにも書きましたが、この元山で銀行の朝鮮人の小使いさん(用務員)のたっての要請で二度、ねいやさん(女中)を雇っています。恐らく生活に困って口減らしの為でしょう。
 しかし、この二人とも、半年ほどで親に泣きながら連れていかれました。
その当時は幼くて意味が分かりませんでしたが、師範学校に入学して元山時代の思い出話の中で母が二人とも売られて行ったのだと話してくれました。
 それで、なぜ泣きながら無理に連れていかれた意味が分かったのです。
 結局、我が家にきて身ぎれいに成ったので高く売れたのでしょう。
 当時は、人種の差別なく貧困家庭や親の借金で郭に身を沈める話はよくある話で、私の身内にも親が博打好きで借金を抱え、年季奉公に出されたが、半年ほどで身請けされたとバカ親が喜んでいると、親族会議で話をしているのをききました。大邸宅でないので子供たちは一つの部屋にかたまっていましたが、年長の従兄弟が、知ったかぶりで説明をしている姿は今でも覚えています。

 此の元山には郭は二か所あり、父が赴任した小都市でも必ず一つは郭は有りましたから、この世に男と女が居る限り、男女の問題は永遠の課題だと思います。
 
 私は、腎盂炎で体が弱く、よく此の、ねいやさんと留守番をしました。其の時教えてもらったのは、
 「イゴリチョゴリガッコリ、ニンチンメンコトウメンコ」
意味は分かりませんが、日本のセッセッセの様なものだと思います。

 二度の身売り事件のあとは、母は二度と朝鮮人のねえいさんは雇わなかったようです。
 「売られていくためにねえやを身ぎれいにしているのではない」
 と母は怒っていました。

 当時の人身売買について説明すると、
 まず当時は、日本人でも遊郭に売られていく(厳密には年季奉公といわれ、人身売買とは違うようで、借金を返済すると親元に帰ることができるのだが、遊郭の主人が手練手管を持ってなかなか借金が返せない様にしているのだと聞き及んでいます)事が法的に認められていた時代だったと言うことです。
 身請けとは、旦那さん(お金持ち)が遊女の借金を全額払い、引き取って行く。ということは、お妾さんに成ると言うことなのでしょう。現代人には説明しにくい話ですみません。

 注・元山くらいの都市になりますと、開発地区は日本人で日本人と朝鮮民族の居住区間は別れていたようです。

 此の様な話を書くのは難しく。話が前後したり、誤字脱字はお許し下さい。


私の過ごしてきた朝鮮時代の体験記

2007年08月08日 11時17分30秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 私の過ごしてきた朝鮮時代の体験記

第一部

 毎日各社の社説を保存するようになって3年目になる。
 8月1日の各社の社説は慰安婦問題を取り上げていました。社によって意見が違うということは、新聞社とて正確な情報は持っていないのかと感じました。

日経(Webから外されていました)

 毎日

 読売

朝日(Webから外されていました)

 産経

 東京

 この問題について私の体験を以前のこのブログの戦前・戦中・戦後を語るにも書いていますので、よろしければ見て下さい。

 実体験の世間と少し違った発言をすると、そんなことはないと国賊扱いにされますので今後絶対この問題について語るまいと思っていました。しかし見たり体験した経験は一人の人間だけの体験記です。しかし語り残しておかなければ、戦時体験を語らないまま亡くなられた諸先輩と同じ結果に成りますので、戦前・戦中・戦後を語るにも書いていますが補足のつもりで書くことにします。

 少し長文に成りますから、数編に分けてお送りします。なお反論される方が居られても、実体験の中から書きますので、反論に対してお答えはしにくいと思いますので、其のてんご了解願います。

もうすぐ敗戦の日がやって来きます。

 傘寿も近い年になると、あと何年生きておられるか判らないので、私の人生の足跡を思い起こしながら書いてみます。

 私の生まれた場所は万景峰号の母港である元山(ウォンサン)。そして元山泉町小学校に入学。銀行員の父の転勤で、吉州、城清、恵山鎮、最後の父の赴任地は阿吾地という豆満江の河口で朝鮮・満州・ソ連(ロシア)当時石炭の液化で栄えて来た町だと記憶しています。
 ここは、ソ連が侵攻して来る一週間ほど前に着任しているので私は全く知りません。
 終戦の8月15日は官立京城師範学校に在籍していましたので、夏休みに帰宅する場所が恵山鎮か阿吾地か判らなく、京城に留まっていたので私の今が有ると思います。
 夏休みに入り、北朝鮮に親がいる友人の中にはソ連が侵入して来たために親元には帰れず、消息不明に成った者もいる様です。

 私は終戦の年の12月に新聞記者をしていた従兄に日本に連れて帰ってもらい、引揚げ船で博多に上陸、と云う事は本土を知らない日本人として、私の日本本土の第一歩は九州博多の港で、駐留兵に頭からDDTを捲かれた事が一番頭の中に残っています。

 クリスチャン一家で育った私は、毎週、日曜日には教会に日曜学校に通っていた事が頭の中にハッキリ残っています。
 この時代の事は私の脳の一番奥に鮮明に残っている、と言う事は、人間幼い時の幼児教育や環境が人生の一生を支配するのだと感じています。

戦時体験の思い出を語ろうの(PDFを取り出したい方はこちらからどうぞ)