護憲+グループ・ごまめのブログ

護憲+・現憲法を守るグループの一人して、今後の社会の状況を戦時を経験した一人として社会を見つめていきたいと思います。

やめて!イラク派兵・京都訴訟

2008年02月26日 16時28分26秒 | 反戦
やめて!イラク派兵・京都訴訟

 昨晩・最高裁に上告するかどうかの原告集会がりました。

 私も、家内と一緒に行きましたが、殆ど高齢の男性で、控訴代理人の弁護士さんもウイークデーで忙しいのだろうか4、5人で、いちまつの淋しさを感じました。

 私の様に法律に疎い人間は、ただ単純に過去の戦争の経験から他国に土足で踏み込むことに抵抗を感じ、原告としてこの裁判に参加させていただいたのです。

 当日頂いた資料。
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 判決の内容を拝見しまと、一審は門前払いの感じが有りました。他の裁判の判決は全部拝見していませんので、その内容は分かりませんが、京都の場合は当日頂いた資料の中の4ベージの赤く囲んだ枠の部分だけでも前向きな判決だと思いした。

 原告の中で数人の方が、積極的に発言され中には、自衛隊そのものが憲法違反だから上告もと言う、ご意見も有ったように感じましたが、教育を受けていない人間には法律は難しい。

 私個人としては、上告して最高裁の判断を聞きたいと気もありす。しかし、高裁の判決が覆されるとの心配もあり、控訴代理人の弁護士さんも大変な作業になると判断して上告はしない方がと判断いたしました。

 最後に当日、出席された原告方々の賛否は最高裁に上告は断念する事に満場一致で決まりました。

 一応、ご報告いたします。

 08年2月26日 火曜日  隠し事 (こちらからお入り下さい)


京都イラク派兵差止控訴審判決

2008年02月22日 15時37分44秒 | 反戦
08年2月22日 金曜日 イラク派兵差止控訴審判決

 鳥居さんが、社会学・社会哲学的視点からご自分のブログ
鳥居正宏のときどきLOGOSの中で判決を傍聴され、イラク派兵差止訴訟京都原告団控訴審の判決文を御覧になって感想を述べられています。
鳥居正宏のときどきLOGOS
 イラク派兵差止控訴審判決文旨ム社会学的視点も加えて。
http://tokidokilogos.blog109.fc2.com/blog-entry-108.html

を御覧下さい。

 法律に疎い私ですが、鳥居さんは私の思いを殆ど書かれています、ご苦労様でした。

 ただ、京都訴訟の発足のおり、他の訴訟団では門前払いに等しい扱いを受けているので、京都の場合は控訴人請求の要旨として(平和を求める良心の侵害)を表に出すと説明だったと記憶しています。

 ただ、私のように法律に疎い人間は、だだ、ただ付いていくのみで、難しいことは分かりませんが、一審の京都判決文より(PDF)
http://yufuu.com/user/goken/kyotohanketsu.pdf

大阪高裁の判決文の方が、少し踏み込んだ判決だと感じたのは、収穫かもわかりません。

 ただ一つ、法律家の視点と、歴史社会学者から見るイラク訴訟とは、歩く方向は同じでも、歩く道が違うのだと感じました。

 08年2月22日 金曜日  海軍さん。(こちらからお入り下さい)


イラク派兵差止京都訴訟・高裁判決文その2

2008年02月21日 15時40分10秒 | 反戦
イラク派兵差止京都訴訟・高裁判決文その2

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イラク派兵差止京都訴訟・高裁判決文その1

2008年02月21日 15時21分00秒 | 反戦
 イラク派兵差止京都訴訟・高裁判決文その1

「イラク派兵差止京都訴訟・高裁判決」(PDF)

イラク派兵差止京都原告団控訴審判決文をPDFファイルで御覧になられない方のために映像で。

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イラク派兵差止京都訴訟・高裁判決文その2
 11ページ~20ページまで。(ここをクリック)

08年8月19日 イラク派兵差止京都原告団控訴審

2008年02月19日 20時24分52秒 | 反戦
 08年8月19日 イラク派兵差止京都原告団控訴審

 昨日はブログのお仲間の鳥居正宏さんと高裁でお会いし色々な問題をお話しあって、裁判とは別に有意義な一日をおくりました。

控訴代理人の弁護士の方々。
   

 当日の感想は、鳥居正宏様のブログ(ここをクリック)で報告されているので御覧になって下さい。

 老人の私は何のために裁判に行ったのか、耳が遠くなり言葉の殆ど聞き取りづらく、この判決に対しての解説は。判決の内容を読まれて、鳥居さんに書いていただくことをお願いしました。
 判決文のPDFは京都弁護士会から鳥居氏に送られたものを護憲+のHPに入れていますから、(ここからどうぞPDF)

  
 鳥居さまに感想をお願いするかわりに、私はPDFで御覧になれない方に判決を映像i変換してお送りします。
 皆で20頁ほどあり。PDFファイルから取り出して映像に作り直すのに時間がかかりますから二、三日の猶予を願います。
 取りあえず、4ページを添付します。
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4ページ。(ここをクリック)

 裁判の個人的な感想は、
 一審の判決の時と同じく、起立令着席で裁判官退廷まで二分はかかっていなく、原告をバカにしていると思いました。
 しかし、判決後のミーティングで、弁護士さんから
「民事裁判は皆あんなものです」
と説明され。
 裁判所まで2時間もかかってたった2分弱かと腹立たしく思いました。
 内容は鳥居氏のかかれた通りですが、判決文は門前払いのようなものではないとの説明でやれやれ。

 来週、月曜日に京都の弁護士会館で最高裁に上告するかどうかを原告の皆さんと決めて参ります。
 私心としては、こうなっては、最高裁の腹の中を覗いてみたい気がいたします。

  08年2月19日 火曜日 恐い話(ここをクリック)

「イラク派兵・京都訴訟」控訴審・大阪高裁体験記

2007年09月13日 20時18分48秒 | 反戦
 「イラク派兵・京都訴訟」控訴審・大阪高裁体験記

       

 9月11日イラク戦争の原因になった世界貿易センター崩壊の日に、京都イラク訴訟第一回の控訴審の心理が大阪高裁で有った事は、何だか因縁を感じる。

 イラク訴訟が無ければ一生裁判の法廷内は覗く事はないと思っていたが、地方裁どころか高裁の法廷内を拝見出来た事は、嬉しくも有り、嬉しくなしという複雑な心境だ。

 これから書く事は、そこらに転がっている庶民の爺さんの高裁法廷の見聞記なので少々の間違いはお許し願いたい。

 先ず、京都地裁と大阪高裁。私は高裁と聞くだけで堅苦しさを感じたのだが、実際経験してみると其れは全く違っていた。
 おどろいたのは開廷だった。地裁では、正面の扉が開き裁判官が着席すると起立礼、着席から審理が始まった。
 しかし高裁では、裁判官が入廷すると、何となく点々バラバラにお辞儀して裁判長と弁護人の代表が何かお喋りをしていたが何となく裁判が始まった感じで、庶民感覚では、何となく高裁法廷が始まったと言うか庶民的に感じた。

 10時に開廷して1時間30分程は、三人の若い弁護士さんの原告代理人が、「京都の審理では国側の代理人の反論も国側の考えも判らないまま審理が終了」するという不文律。
 女性の弁護士さんは、イラクでアメリカ軍の戦闘行為が如何に残虐で使用している武器の種類や残虐さ。
 其の兵器が戦闘を終った後、如何に人身に影響を与えているか。其れにより民間人や幼気ない子供達が犠牲になっているか。

 クラスター爆弾の性能。劣化ウランによる放射線の犠牲の種類や多さをパワーポイントのスライドの視覚で訴えておられた。

 面白かったのは、見かたによってはこの退屈に感じる陳述の間の裁判官の態度だ。一審の時も裁判官は何やら書類を調べたりして陳述を聞いて居ないのかいるのか分からない感じだったが、高裁の裁判官の方が物凄くリラックスして聞いていたようだった。

 其の後に、お三方が陳述書を証言台の前で述べられた。其の後、裁判官が退廷されたので、傍聴席の傍聴人の方々は審理が終ったかと思い立ち上がり、法廷を退出しかけるのを、弁護士さんが、手真似で審理は終っていないからと着席を促されていた。
 後で、家内と笑ったのだが、何となく始まったので、傍聴人は何となく終ったと思ったのだろう。
 私は、このイラク裁判は皆勤している。いつも感じる事は、裁判官と原告代理人の間の言葉は声が小さく聞こえない。其の為、地裁の後半から、補聴器で聞くのだが、小さな裁判長の声に音量を合わすと近く雑音が大きくなり過ぎ吃驚する事度々、笑い。

 退廷されてか5、6分で法廷に出てこられ、原告代理人の何人かの弁護士さんと言葉のやり取りさをれていたが内容は不明。
 ただ分かったのは、11月6日・火曜日に二回目の審理をすると言うことだけだった。

 懇談会は大阪弁護士会の一室であった。驚いたのは新しく建設されたという弁護士会館立派なのには驚いた。

 まず。この時の聞いた大阪のイラク裁判関係の方のお話から書く事にする。  

 大阪の控訴審の場合でも、法廷で拍手が有ったそうだ。すると裁判長は、

「今後、拍手をしたものは、退廷を命じます」

と言われたそうで、今回の審理のときも最初の拍手の後、「退廷を命ず」を言わないかとヒヤヒヤしましたと話され、「裁判官次第なのでしょうか」と笑って居られました。
 大阪の場合は一回の審理で結審。他の裁判も一回の審理で結審が多いので京都も同じ運命かと思ったと話されていた。しかし二回目の審理もあり、それと、お一方の陳述書を採用と言うことは大阪とは全く違うと話されていた。

 その他、弁護士さんの説明の中で、一時退廷され出てこられた時、何人の弁護士さんが裁判長に言葉をかけたのは、今日で結審と言われるのを防ぐためだと言われていた。しかし、いらぬ心配で裁判長はその気はなかったと弁護士さんは話してくれた。

 今回はお三方が陳述書を呼ばれて、その中のお一人、岩井忠熊氏の陳述が採用されたわけは、岩井忠熊氏は現役を引退前は立命館大学の副学長をされていて、その学者の立場からの意見を聞きたいので、項目ごとに文書にして提出して下さいと言っていたようだった。
 後の、お二方の陳述は従軍慰安婦や人から聞いた話は、「この審理とは関係がなく次回からは陳述書は採用しません」地獄耳の家内が裁判官はそう言っていたと話してくれた。
 よく考えると、確かにイラク派兵反対とは関係がなく、裁判の難しさを感じた。

 最後に何故、同じイラク派兵反対の裁判の控訴審で、大阪と京都、審理する裁判所は同じでも裁判官が違うだけで、方や門前払い。方や証拠人採用、なぜこうも違うのか?

 弁護士さんの笑い話の中で、三人の裁判官の中で、一番リラックスしていた裁判官が一番理解を示してくれたと笑っておられたのが印象的。
 
 最後に懇談会の時に横に座って居られた。初めてお会いする名前も存じていないオッチャンとの会話。

「これって、先日の参議院選挙で自民党が敗北して、民主党の小沢党首が、イラク特措法は絶対反対を声明しているから裁判長も慎重になっているのかな」

「裁判官も公務員だから、政治の変動には敏感かもしれませんね」

との笑い話で、この大阪高裁の審理体験記は終わる。


 

京都訴訟の判決の判決文PDFファイル

2007年03月25日 15時11分36秒 | 反戦
 先日のやめてイラク派兵京都訴訟の判決の判決文全文のPDFファイルができ護憲+の視聴覚コーナーの中に入れました。ご入用でしたらどうぞ。

政治マガジン(目で見るニュース)を呼び出し
http://yufuu.com/User/Goken/seijimagaginenew.html
の中の下
       
第四期No.33 京都地裁イラク訴訟判決 判決文全文(PDF)
の判決文全文(PDF)をクリックして下さい。

 頂いて持ち帰った資料は、縮小コピーしていましたのでスキャナーで拡大して調整しましたが、私の腕が未熟なので不鮮明で見にくいと思いますことお許し下さい。

先日入れました。戦時中の体験と終戦直後に聞いた話から・其の三・完結編に(元陸軍二等兵の娘)さんからコメントをいただきました。


 お父様からお聞きになった生の言葉です。コメントの欄の中では見逃されると思いますので全文引用させていただきます。


現地調達という名の略奪 (元陸軍二等兵の娘)さんからの引用

初めてお便りします。私の父の話を聞いてください。
イラク戦争が始まってしばらくしてからのことです。テレビのニュースで、イラク駐留の米兵が戦車の脇で携帯用のランチを食べている姿を見ていた父がポツリと言いました。「アメリカは、昔から、食糧をどこまでも持って行くから大変なんだ。だから中々遠くまで行けないんだ。その点、日本は、何でも現地調達だから、どこまでも行けたんだよ。」

この自嘲と自慢が入り混じった父の話が、大日本帝国陸軍の本質を的確に物語っています。
つまり、父の自嘲とは、食糧の補給もないまま、中国人の農家から豚や野菜を盗みながら、どこにいるかも分からぬ敵に怯えて大陸を行軍したことです。 自慢とは、そんな状態でも、どこまでも侵攻して行ったことです。

しかし、戦後になって米軍の用意周到な兵站の実体を知るに付け、いかに自分達の命が粗末にされたかに気が付き、父は改めて愕然としたそうです。

父の言うには、戦地では最初の内は物品は買っていたが、段々戦利品という感覚になり、「盗みという現地調達」が文字通り日常茶飯事となっていったとのことです。
ある日、盗んだ菜っ葉で食事を作っていると、村の老人がやって来て、「その菜っ葉はどこで手に入れたのか?」と父に尋ねました。「向うの市場で買った。」と父が出鱈目を答えると、その老人は「おかしいな」と首をひねってから、続けて言ったそうです、
「この辺では、その菜っ葉は食べないんだけど」と。



 戦争に行くのは庶民です。
 昔と違い近代戦になると、指導者は安全なところで好きなことをいっています。
 現地調達で、兵隊は食べ物がないときでも国家の指導者は安全なところでおいしいものを食べ命令を出す。同じ人間でも明暗不思議な光景です。

 アメリカの不幸は、自国が他民族に侵され陵辱された経験がないこと


京都訴訟の判決  京都地裁101号法廷

2007年03月24日 13時09分20秒 | 反戦
  やめてイラク派兵京都訴訟の判決  
 3月23日金曜日・午前10時開廷
             京都地裁101号法廷

 裁判、それも原告としての初体験なんとか妻と二人で皆勤できました。

 しかし、判決とはなんと素っ気ない。10時に裁判長が入廷。起立礼で、着席すると待ったなしで主文を読み。約7分で起立令、そして、そそくさと退廷。
 判決とはこんなものかと改めて思いました。
 身も蓋もない魂の抜けた判決文。

総論
 先の戦争が終わって半世紀以上経ち,現世している戦闘経験者、それに戦争の悲惨さを体験している人々の数は歳とともに一人去り二人去り、その人口が少なくなるに従い、戦争に対する感覚そのものが仮想の範囲に入ってきたのでしょう。

 今回の裁判長も陪席裁判官も全く戦争という悲惨さを知らない人間が、今回の京都イラク訴訟を裁いた感じは否めなく、内外の戦時に関するいろいろな問題も、実際に体験した人々でない方が其の事を論ずる時代ですから私たちと全く違ったもの、世の移り変わりをこの裁判でも感じました



 拙い文章ですが裁判のご報告を書かせていただきます。


 2005年2月にハートピア・京都府立総合社会福祉会館で原告団結成
 2005年3月22日に京都地方裁判所に訴状提出
 2005年7月7日に第一回口頭弁論
 2006年11月30日第九回最終弁論
 2007年3月23日判決


 過去の裁判では、報道陣の傍聴は初回と2回目の裁判のみで報道陣の席はあれども人影は無し、しかし、判決となると報道人席は満席でした。
 毎日放送のテレビも取材にきて、ミーティングまでカメラが設置されているのが目に付きました。

 判決文は、たった15ページ。お多分にもれず却下と棄却。とりあえず、主文は映像にして護憲+の視聴覚コーナーに入れて居ますので(ここをクリック)する。
 http://yufuu.com/user/goken/iraqhanketsukyoto.html

 判決後の会合で弁護士さんの判決文に付いて説明に、他の裁判の判決文のページ数は
名古屋地裁 111ページ  大阪地裁  26ページ  仙台地裁  56ページ
と言うことでした。
 しかし京都は15ページだと言う事は心のない魂のこもっていない判決文だと言えるかもです。
 何故か。
 訴訟団を結成して二年余、その間に9回の口頭弁論そして多くの原告団の中から陳述書がだされ裁判長の前で、戦争の悲惨さ残酷さ、戦場で戦った経験、爆撃の恐ろしさ、引揚者の悲惨さ、その戦時体験を切々に訴えました。

 ところが、この判決の中には、これら原告の訴えたことは全く無視しているのです。だから15ページという短い判決文に成ったのでしょう。
 判決の中に何も書いていないと言うことは、あの陳述は何だったのでしょう。全く聞いてなかったと解釈ができます。

 他の裁判では原告団に対して、何らかのコメントがあると聞きました。京都の審理ではパワーポイントを採用して、画期的だと聞き及んでいました。しかし判決文を見ると、人間味のない最低な判決だと思います。

 却下でも棄却でもよいでしょう、それは裁判官の判断ですから致し方ありません。しかし判決文の中に数行の戦争体験者に対してのねぎらいが有ってもよいのかと感じ、何だか胸糞悪くなってきました。
 
 三権分立といわれますが、所詮判事も公務員です人間です。之からは戦争という悲惨を体験しない裁判官ばかりです。この判決は、若い右陪席判事が書いたものと聞きましたが、世の悲惨を経験しない裁判官ですら、老いた原告の証言に労いの言葉が出ないのでしょう。
 
 私は敗訴も判事の判断ですから文句はいいません。しかし、人の心の中も覗けない褪めた判事がいる事が腹立たしいのです。

イラク派兵・京都訴訟・結審

2006年12月04日 16時52分16秒 | 反戦
平成18年11月30日木曜日 
  京都地裁101号法廷
 午前10時、何時もの様に正面の扉が開き裁判長・右陪席・左陪席、三人の裁判官が入廷して最終審理が始まりました。
          
 何時もと少し違うところは被告代理人席に座っている政府関係者が三人ほど少かったのと、回を重ねる度に増えてくる書類を大きな鞄に入れてその書類を机の上に堆く重ね積んでいる光景は初めての裁判経験者にとっては、使わない書類まで持ってくるのは大変だなと感じていたが,結審までそれが続いていたのを見て、公の裁判は非効率だなと裁判を皆勤した老夫婦の感想です。

 私たち護憲や戦争反対の立場の人間にとって悲しく感じるのは、約2年9回の公判で、イラク派兵訴訟の会を立ち上げる時と裁判所に訴状を持っていく時以外は、第一回・二回の公判時にはマスコミも法廷にちらほら姿を見せていましたが、後半はマスコミの取材が全く無く報道関係者専門の椅子がなくなったのは、マスコミも此の様な運動には関心を持たなく、日本の将来を案じさせ、あぁ歴史は繰り返すのかと思いました。

 今回は開廷すぐに、お二方の原告の意見陳述。戦後生まれた若い方は。キリスト教の牧師の立場からイラクで多くの罪のない市民が犠牲になられていること、いかに自衛隊が戦闘に参加しなくても兵員や物資の補給は間接的に殺しの循環に協力している。だから明らかに憲法九条に違反しているかを訴えておられました。

 もうお一方は、弁護士であって訴訟代理人にならず原告に加わった方の陳述がありました。
 その中で私の心の中に残った内容を紹介します。
            
 私の記憶の中では、日本と同様コスタリカは非武装中立を宣言している国家だと思っています。06年2月20日の京都新聞の中からコスタリカ政府ががイラク派兵したアメリカに付いて支持を表明した事に対して、ロベルト青年がたった一人で、「それは違憲である」と憲法裁判所に訴え提訴から一回だけの口頭弁論で裁判所は
「米国支持は違憲であり、指示の取り下げを政府に命じる」
と判決があり、コスタリカ政府は米国政府に支持の取り下げを申し入れ、アメリカはコスタリカをHPの「有志国連合リスト」から削除したこと。
 【コスタリカの裁判制度は日本と違うので、資料の中から抜粋して張り込みますが、不鮮明なコピーですから文字は読めないかも知りませんが張り込んでおきます。】
           
 裁判制度が違いますが、たった一人の青年が国家を動かせる。そしてその国家の政治家は信念を持って国家に尽くしていると云う、日本では考えられない荘厳さを感じました。
 今朝もIAEAのエルバラダイ事務局長がテレビ番組の中で
「日本は非核を訴え戦い続けるべきだ」
とおっしゃっていましたが、一度武器を手にすると、どの様な国家になるか日本が良い見本だとつくづく感じました。

 弁論の最後に4人の原告代理人の弁護士さんが、それぞれの角度からイラク派兵は如何に憲法違反か其れにより原告は「平和を求める良心」が傷つけられたか、京都訴訟で一番訴えたい「平和を求める良心」「生命権」「戦争をしない国家への信頼」について話されていた。

 私のような庶民には難しくて分かりませんが、最後に弁護団長の弁護士さんは明治より現在までの裁訴の訟判例の中で、それが国家の方針ではないものでも、其れが法律に違反していないと判断された判例を挙げておられました。

 第9回イラク派兵の審理の概略を書きましたが、いつも審理の最後に裁判長は次回公判の日時を小声で伝えていたのですが、今回の裁判長は吃驚する様な大きな声で判決は平成19年3月 日と告げられたのは少し驚いた。

 裁判のことは全く分かりません。同じ負けるにも棄却と却下とは意味合いが違うそうです。来年春まで体調を整え原告として判決が聞きたいと思っています。

外地での弟妹の体験

2006年11月18日 09時56分35秒 | 反戦
  日本国内の戦場は唯一沖縄だけでした。沖縄とはいささか違いますが、私の弟妹から聞いた話しを少し書いてみます。

 終戦直前ソ連の参戦で南下できず、仕方なしに北の満州に父母と逃れた小学校六年と三年の弟と妹は、満州でソ連兵や戦車に追われました。小さな自然の壕に隠れた頭の上を、ソ連戦車のキャタビラが轟音を立てて通り過ぎて行った時、「もう駄目だ」と、恐怖で体の震えが止らなくオシッコを垂れたと話したことがあります。しかし、あまり立ち入った話は今でも嫌がってしてくれません。

 その弟も七十四歳の年齢に成りましたが、色々な面で未だに戦争を引きずっている感じが抜けません。兄の私が見ても、ソ連兵に追われ、親に死なれ、今までよく生きて来たな、と感じる時があり、思いっきり、背伸びをして生きてきて、小学校も卒業できていない弟の気持を哀れに思う時があります。

 戦争は弱い者の犠牲者によって成り立っています。弟も妹も当時は子供でした。恐らく、私も含めて私たち兄妹は戦場で戦ってはいませんが、お墓に入るまで先の戦争を引きずって行くでしょう。

 未だに満州孤児の話しが新聞に載っています。その話になると妹は、「お兄ちゃん、もし満州孤児になっていたら今どうなっているだろう。自分の名前を憶えているやろうか。満州孤児にならず、ソ連兵に殺されずに生きて帰れたんやから、孫に囲まれた生活ができるようになったんや、喜ばなあかんな。でもお父さんやお母さんに孫を見せられなかっただけが残念、悔しい」と言います。

それを聞いて、「戦争だったのだから仕方がないな」と言いましたが、やはり戦後は今なお続いていると感じました。

 現在、憲法改正、武器輸出解禁、制服組の有事のシミュレーション。戦前の日本を感じます。そうなった時を想像すると、寝不足に成ります。

 もしイラクに武器は一切無く、車といえばバイクぐらいしか無い平和な国家だったとしても、アメリカは大量破壊兵器が有ると攻めたでしょうか。武力の無い国家を攻めるのに、大量破壊兵器とかよその国家を攻めそうだという口実は成立しないと思います。

「ニワトリが先か、卵が先か」の論争になりますが、イラクに最初に武器を与えた国家はどこなんでしょう。私は朝鮮戦争の時に警察予備隊のようなものは作るべきではなかったような気がしています。

 後日談
この文章は二年ほど前に書いたものですが最近あった出来事を追記します。

この二人の弟妹は、苦労して幼い二人だけで日本に帰っているのにあまり仲がよくありません。
兄の私が口出しするのはと思って戦後づっと見守っていました。

 先日、家内が涙を浮かべながら妹と二時間の長電話をしているのです。電話が終わって家内の話を聞くと、今まで話さなかったがと、昔の話をしたのだと聞いた話をしてくれました。
内容は
「引揚船に乗る直前になって、お兄ちゃんが『そこに待っとけよ』絶対に動いたらだめだ」といって居なくなって一時間ほど待っても帰ってこなく、不安になって泣いていると、知らないおっちゃんが、日本に帰る船に乗るのなら、速く行かんと乗れなくなると船着き場まで連れていってくれると、お兄ちゃんが乗船(引揚げ最後の船)するために並んでいた。
傍に行くと「あっ来たのか」と一こと言っただけであっちを向いていた。お兄ちゃんは私が手足まといになって、私を捨てて帰ろうとした。
と戦後半世紀の間思いを溜めていたことを切々と家内も泣きながらはなしていたようでした。
 当時、親でも子供を手放して帰ってきている方も居られます。それが悪いとは決して言えません。生きて行くいや子供を生かす為の選択かも分かりません。戦後多くの満州に置き去りになった子供たちが肉親を求めてかえってきています。しかし親のなかに子供を置き去りにしたという、自虐の念て遇うのを躊躇った方も居られるかも分かりません。

 弟の気持ちも分かり過ぎるほど分かります。妹の思いも痛いほど私の心を突き刺します。この気持ちは飽食で何の苦労もなく生きてきて人には割らないでしょう。それも時代の流れですから。
 私夫婦で話し合ったことは、無理に昔の話を出すより今まで通り普通にしておこう。私たち兄弟があの世に逝くまで今の思いを持って行くしか仕方がないとの結論になりました。

 戦争の傷跡は決して癒えることはありません。戦地でなく一民間人でも半生記立っても心に傷が残っているのですから。私たち兄弟の戦後は、あの世に旅立ってから始まります。

 だから首相が大統領がどのような綺麗ごとを言っても人が人を殺す戦争はやめなければいけません。

 護憲の精神は永遠です。

戦争は誰がする・反戦のうた・4

2006年11月13日 18時42分05秒 | 反戦
議員になれば 偉くなり
 庶民を戦地に 送り込む
  話するのに 料亭へ
   危険な所へ 行くなれば
    戦国時代の 武将のように
     先頭に立って 行きなさい 

      イラクであった 無抵抗
       寝ていた 市民に弾丸を
        打った兵士は 怨めない
         あべこべ 撃たれることも有る
          それが戦争 昔も今も 変わらない

            おんな子供も 敵になる
             少しの 油断が命とり
              それが戦の 定めなの
               だから戦争 駄目なのよ
                それが戦争 昔も今も 変わらない


                   

若者が 犯したその罪は
 兵士を戦地に 送り出す
  大統領の 罪なのよ
   見えない罪は 誰が取る
    やはり 大統領よ とりなさい

      政治家の 隠れた罪は
       地球の重さと 比べにならず
        あなたの作った 法律で
         多くの若者 地獄行き
          その時あなたは 何してる

            建国いらい アメリカは
             侵略されてた 経験ない
              経験無いから アメリカ人は
               戦争の無惨さ 判っていない
                だから戦争 賛成してる
 

     真珠湾 日本が攻撃 したために
      アメリカ中が 頭に来
       広島、長崎、原爆落とし
        無差別攻撃 正当化
         それが戦争 なんだけど
          勝てば官軍 わしゃえらい

            国に謝りたくないならば
             無抵抗の 人々を 殺した罪
              地球が宇宙に 浮いてる限り 
               これは絶対に なくならない
                被害者にくらいには 謝れよ

                         終わり

戦争は誰がする・反戦のうた・3

2006年11月12日 08時26分30秒 | 反戦
国民の意見は 耳に栓
  何でもかんでも 民のためだと
    押し付けて 己だけが納得し
      暗い夜道に 迷い込む
        いつか来た道 もどり道
 
       学校で お国のために
         死ぬんだと 教えを受けて
           育ったが それが未だに
             残ってる 教育とは何だろう
               それが本当に 腹が立つ

              陛下のため 命を捧げ
                若もの達は 志願する 
                  はたち前の その命
                    体当たりしに 特攻へ
                      自爆テロも 同じ道


何だろう 戦争とは 何だろう
 どこの国の 政治家も
  お国のためだと 言っているが
   自国のエゴや 自分のエゴで
    死んでいくのは 普通の庶民
     なんぼなんでも 不公平

       お国のためだと 鉄砲持って
        狙いを定めて 撃つ相手
         撃つ国民も 撃たれる民も
          国へ帰れば 只の人
           平和であれば お酒を飲んで
            仲良く話せる 地球びと

              危ない 戦地に 送り込む
               それを決める 人々は
                選挙で決めた 只の人
                 議員になれば 偉くなり
                  これは政府が 決めたこと
                   胸をはって 行きなさい


戦争は誰がする・反戦のうた・2

2006年11月08日 14時54分27秒 | 反戦
戦争は 出征兵士を
  送る日々 日の丸持って
    駅に立ち 涙を浮かべ
      元気で帰れと 手を振って
        いつか来た道 もどり道

       戦死者の 公報あるたび
         その遺族 顔何だか寂しそう
           お国のためだと 思っていても
             後ろ姿は ふるえてる
               いつか来た道 もどり道

              母さんも 兄を予科連に
                送りだした そのあとも 
                  誰も居ない ホームの上に
                    一人ぽつんと 立っている
                      いつか来た道 もどり道


父さんは 元気で生きて
 帰って来いと 心の中は
   思っていても 口には出せない
     その辛さ 民の心の空しさよ
       いつか来た道 もどり道

      母校に顔を 出す時
        何時も必ず 出撃まえ 
          武運を祈り 手を振って
            送る姿は もう見れぬ
              いつか来た道 もどり道
 
             右と左の 分かれ道
               どちらに 行くかは国民が
                 決めることだと 思うのに
                   政治家官僚 勝手に決めて
                     もどり道に 迷い込む

戦争は誰がする・反戦のうた

2006年11月05日 08時40分11秒 | 反戦
 以前,護憲+グループの戦時を語るに書いたものを重複しますが書き込みます。
 詩とは言えないものですが、戦時を体験した老人が、頭に浮かんだままを書いたものですが、よろしかったら見て下さい。
                       ごまめの翁

一銭五厘の 紙切れは
  遠い戦地に いくはがき
   もらった 父さん兄さんは
     いのちを国に さしだした
       いつか来た道 もどり道

      国が決めた 戦争に
        否応なしに かり出され
          見知らぬ 他国の人々を
            撃たねばならぬ このつらさ
              いつか来た道 もどり道

              九条で 戦争放棄を
                決めたはず 皆が遊んで
                  いるあいだ 戦車に飛行機
                    イージス艦が いまは有る
                      いつか来た道 もどり道



三国同盟 国家で決めて
  何時のまにか 大戦争
    不可侵条約 破棄されて
      国際条約 懲りたとおもう
        いつか来た道 もどり道

       日本には 日米安保が
         有るけれど 自分のくにが
           危ない時に 他国迄は守れない
             国際条約 当てにはならぬ
               いつか来た道 もどり道

              新憲法 アメリカさんが
                作ったと 日本人の憲法に
                  変えるよう お尻をつっつかれ
                    作るけんぽも USAの息がかり
                      いつか来た道 もどり道

ガーディアン紙の世論調査

2006年11月04日 10時50分01秒 | 反戦
 今日の朝日の朝刊の国際面に英国のガーディアン紙の世論調査が載っていた。
http://www.asahi.com/international/update/1103/007.html
                 
「危険な人物」に付いては
   アルカイダを率いる
    オサマ・ビンラディン氏が87%
   続いてアメリカの
    ブッシュ大統領については75%
   北朝鮮の
    金正日総書記は69%
   イスラム教シーア派過激派
    ハッサン・ナスララ師の65%
   イランの
    アフマディネジャド大統領の62%
 だそうだ。

 テロを率いる組織のリーダーと、正義と称して巨大な軍組織を率いるリーダーが1位と2位、イギリスの国民も力による論理に平和はないと思い出したのだろうか。

 皆さんに笑われそうだが、私は軍事行動は地球の自然破壊を促進するので戦争は反対だと云う面もある。
 そして核は安全に管理していると言うのだが、三万発に近い核兵器、管理するのは人間、管理をしている機器は所詮人間の作ったもの、何処かで異常が起こさないか心配だ。



 昨日のテレビ番組でアメリカの中間選挙の民主党のケリー上院議員の演説している場面が写っていた。そして若者に
「たくさん勉強して、ちゃんと宿題もするんだよ、努力すれば賢くなれるのだから、さもないとイラクで痛い目に遭うぞ」
と言って全米に波紋を呼んでいるそうだ。自分は何ものだと思っているのだろうか。上流社会の人間と称する人々は、人を蔑むのはごく当たり前だと思っている発言だ。

 このブログの反戦カテゴリー・武力は一切持たない無抵抗主義にも書いているが、10月だけで100人以上の兵隊が戦死している。ケリー上院議員は此れ等の人々を愚ろうした事になるので、侮辱罪で訴えられても良いのではないか。
ブッシュといいケリーといい此の様な指導者を持ったアメリカ国民は可哀想である。
 やはりどこの国家でも政治家集団は職業や身分の格差を意識している事がよく分かる。

 何度も言うのだが、独裁政治でない国家の指導者たちは、戦争を決断するのは国家として国民が選んだ政治家が決めるのだから致し方がない。それは国民が其の様な人物を選んだからだ。

 しかし昔から多くのこれら指導者一族が一番危険な戦場には行ってはいない。言うなれば戦争の痛みが全く分からない人々なのだ。ケリー上院議員の発言がこれを証明している。日本も憲法改正を目論んでいる政治家は、戦争の痛みを知らない人物で、何事も力の論理で解決しようと心掛ける。

 同じことばかりを書いて申し訳ないのだが、憲法改正を唱えている議員は必ず自衛隊に自分の血縁を入隊させ、何かあれば率先して戦地へ行ってほしいものだ。各国の指導者たちが痛みを味わうと国際紛争も力でなく話し合いで解決する努力をするのではないだろうか。