徳丸無明のブログ

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認知症者の生きる孤独――記憶力と時間感覚③

2017-05-17 21:41:28 | 雑文
(②からの続き)

記憶が蓄積されない認知症者は、「今現在だけ」を生きている。その認知症者が「ずっと家族に会ってない」と訴えるのは、「今寂しい」という気持ちの表明である。だから求められるのは、その寂しさにどれだけ寄り添ってあげられるか、なのだ。
「◯月◯日◯◯さん来設」という面会記録は、真偽の確かめようのない謎の文字組でしかない。
実際、多くの認知症者はよく「あった」ことを「なかった」と言う。よくある例だと、ご飯を食べたのに「食べてない」と言ったりする。このような場合に、正面切って「食べたでしょ」と指摘する人もいるだろう。そのように指摘する人は、自分の行いを「記憶違いを正している」と捉えているかもしれない。しかし、それは「記憶違い」ではなく、「記憶の欠落」なのである。記憶が欠落した認知症者にいくら事実を訴えようと、その事実に照応する記憶がないのであれば、本人の主観ではありもしない出来事を語られているとしか感じられない。誰だって、ありもしないものを「ある」と言われたり、あるはずのものを「ない」と言われれば、混乱するだろう。
また、問題はそれだけにとどまらない。自分が正しいと思っていることを間違いだと指摘されるということ、まったく記憶にない出来事が真実だと言い聞かされるということ、それは、認知症者本人にとっては、面と向かって「お前はもうボケているんだ」と宣告されるに等しい。認知症者のことを思って、善意で正しいことを伝えているつもりでも、結果的には認知症者を傷つけることになってしまうのだ。
もちろん記憶が維持されない以上、「傷つけられた出来事」もまた、時間が経てば忘れてしまうだろう。だが、「記憶」は失われたとしても、「ストレス」は残るのである。頭を混乱させられたり、傷つけられたことによって生じたストレスは、のちに心身の不調として、何らかの形で表出するはずだ。
だから、その辺の機微を知悉している介護士は、認知症者の誤りを、正面切って否定したりはしない。いったん相手の主張を全部受け入れたうえで、気持ちをはぐらかす方向に会話を誘導するのである。
ついでに、記憶力が蓄積されなくなることで生じる影響について、もう少し記しておく。
家族や友人と過ごしたひとときや、仕事で汗水を流した経験など、日々の出来事の集積に基づいて、我々は「自分は何者であるか」という自己規定を行う。記憶こそがアイデンティティを担保するのである。それは自分に自信を持ち、活力のある暮らしを送るためにも不可欠な要素といえるだろう。
だから、記憶が失われるということは、自己を確立するためのよすがとなる源が消失するということである。そのような状態に置かれた時、人は自分を、透明で空っぽな、寄る辺なき根無し草のように感じるのではないだろうか。
記憶力が失われるということは、活力が損なわれるということでもある。認知症者の多くが、それ以前と比べて無気力になってしまうのは、おそらくこのためでもあるだろう。
また、健常者たる我々は、寂しい時や苦しい時に、過去の甘美な記憶を呼び起こしてストレスの解消を図るが、認知症者にはそんな慰みすらないのである。
記憶を失うことで生じる悪影響は、たぶん他にもいろいろあるのではないかと思う。記憶とは、かくも大きな比重を占めているものなのである。
認知症者は、健常者よりも孤独を感じやすい。そんな認知症者の「今現在」の孤独に、どれだけ向き合うことができるか、が問われなくてはならない。
だから、理想を言えば、認知症者にずっとつきっきりでお喋り相手になる人がいればいいのである。だが、現実的にはそうはいかない。家族だって、仕事や家事があるし、介護施設に入所している場合でも、介護士は様々な業務をこなさねばならず、認知症者とコミュニケーションを取れるのはごく限られた時間だけ、というのが普通である。

(④に続く)

認知症者の生きる孤独――記憶力と時間感覚②

2017-05-16 21:33:33 | 雑文
(①からの続き)

通常我々は、「過去の記憶」と「現在」の対比において、時間感覚を得る。10年前の記憶、5年前の記憶、1年前の記憶、1時間前の記憶、5分前の記憶・・・。それらの記憶との距離感によって、「現在」は知覚される。時間感覚は、過去の記憶があって初めて覚知されうる。
それは、時間の長さを知る、ということでもある。我々は、自分自身の年齢に疑いを差し挟むことはないが、それは過去の記憶の蓄積があるからである。年齢相応の記憶量があるからこそ、自分の今の年齢を正当なものとして受け入れている。今この瞬間が「何月何日何時何分であるか」を把握するのもそうである。「今日が何月何日か」、あるいは「今何時何分か」といった感覚(見当識)が、酔っぱらった時や、頭部に強い衝撃を受けた時などを除いて大きく狂うことがないのは、短期記憶、直近の記憶が生きているからである。
もし、一切の記憶が失われてしまったとしたらどうだろう。認知症者は記憶が持たないので、直近のことでもすぐに忘れてしまうが、昔のこと、認知症になる以前のことは憶えていたりする。だが、脳機能の衰えが進行し、過去の記憶もすべて失われてしまったとしたら?
その時は、現在の時間感覚を認識するための比較対象が存在しない、ということになってしまう。一切の過去が存在せず、あるのはただ現在のみ。その時、その人物の意識は、現在にすっぽりと包まれる。充満する現在。比較対象を持たない現在には、「長さ」がない。
だからおそらく、一切の記憶を失った人物の現在は、限りなく無限に近くなる。
何があってもすべて忘れゆき、時間が経過した根拠となる過去が存在せず、ただ「今」だけがある。5分前の記憶も、1時間前の記憶も無いのなら、5分経とうが1時間経とうが、認識の上ではまったく時間が経過していないのと一緒だ。
「現在」は、記憶に置き換わることで「過去」となる。我々は、「記憶に置き換わった現在」(=過去)を知覚することによって、時間の経過を知る。現在が次々と記憶に置き換わるその動態によって、我々は時間の流れを知るのだ。だから、記憶が蓄積されないということは、時間が流れないということであり、現在はいつまで経っても過去にはならず、現在のままとなる。
「現在」は、「過去」が発展したものである。「過去」からの「現在」の発展度合い、「過去」と「現在」の差異によって、時間の経過は測られる。「時間が経過する」というのは、「記憶が蓄積される」ということと同義である。
だから、記憶が蓄積されない認知症者、直近の出来事も憶えていられない認知症者の「現在」は、いつまで経っても「過去」にならない。実際にいくら時間が経過していようと、時間が経過したことの手がかり(記憶)がない以上、主観では経過していないも同然だ。
「記憶が蓄積されない生を生きる」とは、「いつまで経っても過去にならない現在を生きる」ということである。「現在の中に閉じ込められる」と言い換えてもいいかもしれない。(ただし、これは少々単純化した議論である。記憶が蓄積されない認知症者といえども、数秒から数十秒程度の記憶は保持されるだろうからだ。だから、厳密に言えば認知症者は、数秒から数十秒の幅の記憶を有していることになる。だがおそらく、その記憶の幅の短さゆえに、通常健常者が認識しているような時間の経過を知覚することはできないのではないかと思う)
認知症者は、昼夜の区別がつかなかったり、季節の感覚がなかったりするが、これは昼夜や季節を把握する感覚の衰えという直接的な原因のみならず、記憶が蓄積されなくなったことの影響にもよる。(小生の祖母も4月に会った時、「正月には帰ってこれるの」と訊いてきた)
「限りなく無限に近い現在」とは、そういうことである。
この「限りなく無限に近い現在」を、病院のベッドの上で、身動き一つとれない状態で過ごさねばならないとしたら、どうだろう。直近の事も憶えていられないのみならず、昔の記憶もすべて失われ、あまつさえ自分が何者であるかすらわからなくなってしまっていたとしたら?

ずっと天井ばかり眺めている。いつまでこうしていなくてはならないのだろう。おそらくここは病院のようだが、どうしてこんなことになってしまったのだろう。そもそも自分は何者なのだろうか?
とにかく退屈だ、そして寂しい。ずっとひとりぼっち。一人でずっと横になったままだ。
ふいに看護婦が診察にやってきた。やはりここは病院のようだ。はっきりと憶えていないが、たまに医者や看護婦が来ているようだ。看護婦は甲斐甲斐しく世話をしてくれる。おかげで孤独が癒えた。だが、それもほんのひとときこと。すぐに彼女はいなくなり、また天井を見つめるだけに逆戻りだ(そして診察を受けたことを忘却。意識の上ではずっと誰にも会っていないも同然となる)。
あまりに長い。寝たきりで身動きが取れず、喋ることもままならずに天井ばかり眺めているこの時間は、あまりに長すぎる。どうにかしてほしい。誰か助けてほしい。体を動かすことが叶わないなら、せめて誰か傍にいてほしい。
そんな折、一人の男が訪ねてきた。この男は誰だろう?どうしても思い出せないが、親しげな表情からして親戚だろうか。この際誰でもいい。とにかく自分を訪ねてくれたんだ。ありがたい。とにかく寂しかった。
男は何やら喋っている。今の自分には聞き取ることができないが、慰めの言葉のようだ。嬉しい。手のぬくもりが暖かい。一人じゃないと、生きていると感じる。これをずっと求めていたんだ。
不意に男が帰るしぐさを見せた。いやだ。行かないでほしい。ずっと寂しかったんだ。もうあんな終わりのない孤独の中に戻るのはごめんだ。あんな寂しさには耐えられない。ずっと手を握っていてほしい・・・。

握りしめた手の強さは、孤独の強さの表れであっただろうか。いや、おそらくはそうではない。孤独のほうが、もっとずっと強いのだ。振りほどくことができない力は、寝たきりの老女が出しうる最大限の強さだ。もし、手を握る強さと、孤独の強さがイコールならば、小生の手など簡単に握り潰されてしまっていただろう。
もちろん他人の頭の中が覗けるわけではない。これはあくまで想像に過ぎない。愚かな妄想と言われればそれまでだ。
だが、小生が見舞った女性に関しては見当違いであったとしても、現在認知症者として生きる人々の中に、これと同様の孤独を囲っている人が少なからずいるであろうことは、推測に難くない。

(③に続く)

認知症者の生きる孤独――記憶力と時間感覚①

2017-05-15 21:11:56 | 雑文
当年とって96になる母方の祖母に、認知症の兆候が見られるようになった。
祖母は長いこと膝の痛みを訴えているのだが、それ以外には目立った持病もなく、ずっと一人暮らしをしていた。多少の物忘れがあることを除けば、比較的頭もはっきりとしていた。年齢の割には元気なほうだったと言える。
小生は熊本生まれで、現在福岡に住んでいる。半年に一度は里帰りし、その度に必ず祖母に顔を見せているのだが、最近祖母がよく「もう何年も会ってない」と口にするらしい。
同じような訴えをする認知症者は少なくない。
以前介護施設で働いていたことがあるのだが、そこに入所していた一人の女性が、やはりよく「家族が全然会いに来ない」とぼやいていた。実際には月に1,2回はご家族が来られていたのだが。だいぶ症状が進んでおり、数分前の出来事も憶えていられない人だった。その女性が「家族に会ってない」という訴えを起こすたび、他の職員は面会記録のノートを見せていた。「◯月◯日に来てるよ」と差し出されたノートを、その女性は不思議そうに眺めていた。
小生はその対応に、違和感を感じていた。当時はうまく言葉にできなかったが、決定的な勘違いをしているような気がしたのである。
介護士になる前に、ヘルパー二級の資格を取ったのだが、その中で介護施設に研修に行ったことがあった。研修先のグループホームに、90はとうに過ぎていたであろう一人の女性がいた。自力では歩くことができず、ほぼ寝たきりの状態であったのだが、自室のベッドの上で、ひたすら「◯◯ちゃーん、誰かー」と叫んでいた。
それが日常の光景であったのか、そこの職員は女性の声に一切耳を貸さず、他の業務に精を出していた。ご家族はこの状態を容認されていたのだろうか。静まり返った施設の中に、延々老女の人を呼ぶ声が響き渡る様は、異様な光景に見えた。
たまたまその女性の部屋に近づいた時、「どうしたんですか?」と声をかけてみた。すると彼女は小生の手を取り、「さみしいのー」と答えた。そして、見えているのかいないのかよくわからない、白く濁った眼でこちらを見つめながら、堰を切ったようにお喋りを始めた。やはり記憶が全然持たないようで、何度も同じことを口にする。その時の、彼女の手を握る力が、とても強かったのをよく憶えている。
もうひとつ、似たような思い出がある。
勤めていた施設の、先程の女性とは別のもう一人の女性が、ある日急に体調を悪化させ、救急車で運ばれていった。病院で調べたところ、介護施設ではお世話できない状態になっており、そのまま病院に移ることになった。
その方が施設を退去されて一年ほど過ぎたころ、病院を見舞ったことがある。施設にいたころから歩くことができず、車椅子生活だったのだが、施設では日中はリビングの椅子に腰かけて過ごしてもらっていた。だが、病院ではほぼ寝たきりになっていたようであった。また、以前は間延びした声で喋られる方で、簡単な内容のやり取りであれば意思の疎通ができたのだが、その時調子が悪かったのか、少し前からそうなのか、訪れたときは一言も喋らなかった。
「ひさしぶり」「具合はどうね?」などと話しかけながら彼女の手をさすると、こちらの手を握りしめてきた。言葉が聞こえているのかいないのか、無言でこちらをじっと見つめていた。表情にも変化はない。
一方的に話を続けたが、おそらくこちらのことなど憶えていないであろう認知症者の方相手では話題も乏しく、相手が受け答えをしないので、話も発展しない。また、小生はあまりお喋りが得意な方でもないため、わりとすぐに、ただ黙って手を握りしめる状態になってしまった。
しばらくして、そろそろ引き取ろうかと立ち上がりかけたが、彼女が手を離そうとしない。当時80代半ばだったであろう寝たきりの老女の、掴んだ手を引き離すことができない。
「もう帰るよ」「また来るけん」。何度もそう言ってみたのだが、それでも手を離してくれない。やはり無言で、こちらを見つめたまま手を握り続けている。やむを得ず指を一本ずつ掴んで引き剥がし、ようやく病室を後にした。
彼女はあの時、何を考えていたのだろう?

(②に続く)