徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

聴かれることのない音楽のために・第四夜

2018-01-25 21:32:59 | 雑文
ヒカシュー・・・俗にいう「テクノポップ御三家」の一組。しかし本人たちはそのことを否定。実際、様々な表現手段を取り入れたヒカシューの楽曲は、テクノという領域に留まらない。デビュー当時はテレビ出演することもあったそうですけど、今はもう微塵もそんな気配がないですね。もちろんそれはテレビ側が彼らを受け入れる懐を失ってしまったということであり、ヒカシュー側の問題ではありません。リーダーの巻上公一さんは紛うことなき天才なんですけど、ミュージシャンとして優れているというのみならず、人知を超えたものに触れることができるというか、超人めいた雰囲気を感じます。僕の中では、Acid Mothers Templeの川端一さんと並んで2大巨頭なんですね。勝手に「西の川端・東の巻上」と呼ばせてもらってます(あくまで僕の音楽知識の範囲内での判断ですよ)。
このヒカシューに、即興演奏を収録した『転々』というアルバムがあります。一切の作詞作曲なしに、楽器の担当だけ決めて「せえの」で行われたセッション全9曲からなるアルバムです。僕は最初にこのアルバムを聴いた時、恐怖を感じました。ホラー映画のBGMのような、不安を掻き立てることを意図した音楽とは異なる恐怖でした。音楽を聴いていてこんな感情になったことなどなかったので、これは一体どういうことなんだろう、と思いました。で、考えた結果、「未知性の高さ」のせいだったのではないか、と思い至ったのです。例えば、どこか知らない国の、知らないルーツを持つ音楽、今まで一度も聴いたことのない音楽を聴く場合でも、それが「特定のコードに則って演奏されている」ということだけは理解できますね。自分が知らないジャンルの音楽であっても、そのジャンル内には厳然としたコードがあり、それがどんなコードであるかはわからないけど、ちゃんとコードに従って演奏されていることだけは感覚でわかる。だから、恐怖を感じたりすることはない。(フリージャズも完全な即興ではなく、「フリージャズのコード」があって、それに沿って演奏されているそうです)
でも「ヒカシューの即興」には、そのコードすら存在しなかった。どのジャンルにも属せず、コードも一切存在しない。そのあまりの未知性の高さが恐怖の源だったのではないか・・・そう思ったんですね。
「ヒカシューのリイシュー」シリーズによって、長らく入手困難だった『なにもかも踊れ』が再販された時は嬉しかったですね。今は自主レーベルを立ち上げられて、契約に縛られない自由な活動を展開していらっしゃるようです。

ヒゲドライバー・・・コンピューターの電子サウンドによるピコピコミュージック。チップチューンというそうです。最近のヒゲドラさんはプロデュース業のほうに力を入れてらっしゃるのでしょうか。『少女終末旅行』EDの「終わるまでは終わらないよ」ってフレーズ良かったですね。「となりのトトロ」のカバーはヘドバンせずにはいられません。バンドのヒゲドライVANもよろしく。

平沢進・・・僕は『けいおん!』のファンなのですが、それとは全く無関係にP-MODEL(ピーモデル)も好きです。P-MODELはヒカシューと同じテクノポップ御三家の一組。もう一組のプラスチックスは正直好きじゃないのですが。平沢進さんは活動休止中(メンバー曰く“培養”)のP-MODELのリーダーで、現在ソロで活動してらっしゃいます。ソロプロジェクトの核P-MODELもあります。商業主義によって自由度を狭められた音楽業界に異議申し立てをする形で、自主レーベルの設立と独自の販売ルートの開拓を行った、独立独歩のお方です。CDの販売も基本はネット通販なのですが、タワレコやHMVでは購入可能。
平沢さんの歌詞は抽象的なんですけど、頻出する単語が“君”なんですね。これはどういうことかというと、僕は「屈折したラブソング」なのではないかと。ええ、たぶん勘違いですけどね。平沢さんの歌声は包み込まれるような安心感があります。これが父性というやつでしょうか。違いますか。

POLYSICS(ポリシックス)・・・テクノポップの忠実な継承者。おそろいのツナギユニフォームでお馴染み。DEVOに触発されたハヤシさんは常に満たされなさに囚われているそうで、精力的にライブと曲作りをされています。彼らの曲はよくTVでBGMに使われていて、「Electric Surfin' Go Go」や「ドモアリガトミスターロボット」なんかは一度は耳にしたことあると思います。「音楽を通して訴えたいことなんか何もない」というハヤシさんの曲は、純粋に“楽しむため”の音楽です。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿