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徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

森永製菓 エンゼルパイ

2022-03-11 22:43:41 | 
今日は天使のパイです。




エンジェルをエンゼルと呼んでいた時代の名残をとどめるお菓子。チョコとマシュマロの相性の良さを噛みしめましょう。
これは僕が子供のころの話です。保育園の、たしか年長さんの時だったと思います。先生が園児を集めて、「大人になったら何になりたいですか」という質問をしました。
ほかの園児たちは、「プロ野球選手」とか「看護婦さん」とか、いかにも子供らしい夢を答えていました(当時はまだ「看護師」という呼称はありませんでした)。先生はひとりひとり指名して将来の夢を訊いていき、僕の名前も呼ばれました。「徳丸くんは何になりたい?」
しかし僕は、答えられませんでした。何も考えていなかったのです。大人になったらどんなお仕事をしたいかなんて、一度も考えたことがありませんでした。
先生は「大人になったら何になりたいか」以外にも、2つくらい質問をしました。質問内容は覚えていないのですが、僕はそちらも答えることができませんでした。答えが浮かんでこなかったのです。
よーするに、当時の僕は、ほとんど何も考えていなかったのです。何も考えずに生きていた。
このように話せば、単なるアホと思われるかもしれません。でも僕は、声を大にして言いたい。
「なにゆえ未就学児童のうちから将来の夢など考えておかねばならないのか?」と。
就職する時期が来たら、なりたい仕事があろうがなかろうが、それなりの職場を選ぶことになります。重要なのは仕事についてから、ちゃんと勤め上げるかどうかであって、前もって何になりたいかという希望を持っているかどうかではないはずです。
それに、幼いころから将来の夢があったとしても、大人になるまでに何度か希望が変更するはずです。幼いころの夢なんて、大人になる時期の就職活動には、ほぼ反映しません。
なのになぜ、保育園児に将来の夢を語らせようとするのか。それは、大人の側の勝手な願望、言ってしまえばエゴにすぎません。子供が将来の夢を語る姿を見て、「しっかりしてるのねー」「えらいのねー」って思いたいのです。あくまで大人の自己満足であって、子供のためではない。そんな大人の自己満足のために、子供は小学校にも入らないうちから将来の夢を考えないといけない。バカらしいと思いませんか?

卒園アルバムにも将来の夢を記入しなくてはなりませんでした。前回のように無言ですませるわけにはいかず、僕は、「何になりたいだろ、うーん」と悩んで、「パン屋さん」という答えにたどり着きました。「将来の夢」という題材の作文にも、「なぜ自分はパン屋さんになりたいか」を書き綴りました(この作文は小学校に入ってからだったかもしれません)。
作文を読んだ大人たち(先生と親)は、僕が本気でパン屋さんになりたいと考えていると受け取ったでしょう。しかしこの将来の夢は、大人たちの要請によって半ば強引にひねり出されたものだったのです。ひねり出した後で、自己暗示にかかるようにして、なんとなく本当にパン屋さんになりたいような気もしていましたが、自発的なものではなかった。
子供に将来の夢を持たせたがる大人たちは、自分たちが夢を持つことを強要しているにもかかわらず、その事実を都合よく見て見ぬふりをして、あたかも子供たちが自然に将来の夢を選び取っているかのように錯覚しているのではないでしょうか。
そのことを声高に批判するつもりはありません。さほど弊害があるとは思えないからです。放っておいてもかまわないかもしれない。
ですが、「将来の夢を持っていないとダメ」というふうには考えないでもらいたい。夢なんかなくたって、子供は毎日楽しく過ごせるし、それなりにちゃんと育ちます。「夢がない人生はつまらない」なんて大嘘ですよ。
ところで、子供の夢と言えば、男の子の中にはウルトラマンとか仮面ライダーになりたい、っていう子がいますよね。ひとつの保育園にひとりくらいは必ずいます。僕は、それこそ男の子の正しいありかただと思うのですが、保育園の先生は、その手の夢も許容していたのでしょうか。
卒園アルバムには、そのような回答は載ってなかったと記憶していますが、先生側に不許可だとして再提出を求められたりしなかったのでしょうか。
子供の時分ぐらいは「ウルトラマンになりたい」って願望が許されていいと思うんですけどね。


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、ではなく雑感。
前にテレビのインタビューで、「私はコロナが終息してもマスクを外せないと思う」と話している20代くらいの女性がいました。僕はそれを聞いて、少し切なくなりました。
コロナ以前からつねにマスクを身に着けている人がいましたが、その数が増加してしまうということです。これもコロナの弊害。
なぜ風邪を引いたわけでもないのにマスクを着用しているのかというと、容姿に自信がないからという理由もあるでしょうけど、自分と他者との間の距離を開けたいからでもあるでしょう。
マスクは、他者との間の皮膜、もしくは壁として機能します。それによってわずかながら他者との間に断絶ができる。人付き合いがうまくできない人にはその距離感が心地いいのでしょうけど、そのせいで人間関係が希薄になってしまいかねない。
僕はそれを頭ごなしに否定するつもりはありません。マスクを着けることで心穏やかに生きていけるというのであれば、おおいに尊重されるべきです。
でも、本当に希薄な人間関係に安住してていいの?とも思ってしまうのです。マスクを外し、人と距離を詰めることを試みたほうがいいのではないか。もしそれがしんどかったらマスク着用生活に戻してもいいけど、一定期間マスクなし生活に挑戦してみたほうがいいのではないか、とも思うのです。
コロナ終息後も今と同じように残り続けるものは、ほかに何があるでしょうか。お店の入り口のアルコール消毒。行列の間の距離。肉体的接触の躊躇。これらが習慣として残り続ける可能性は大いにあります。
そして、これらはすべて人と人の間の距離を拡げ、人間関係を切り裂き、新たな関係の創出を阻む要因になります。つまり、放っておくとコロナ後も、人付き合いはどんどん希薄になっていってしまう、ということです。コロナの影響で多くの婚姻が失われたという推計が出ていましたが、少子化もますます加速するでしょう。
これをどうやって防いだらいいのでしょうか。僕には具体的な方法がわからないのですが、ひとつは、コロナ前の当たり前を忘れないようにする、ということではないでしょうか。ソーシャルディスタンスは仮のものなんだ、人間はもっとくっつくものなんだ、って。