徳丸無明のブログ

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愚か者の黙示録――人類の歴史とは総白痴化の過程のことか・前編

2017-10-30 21:57:42 | 雑文
今も売れ続けているのかもしれないが、少し前に90過ぎの女性が書いたエッセイがベストセラーになった。歯に衣着せぬ物言いがヒットを呼んだ、と喧伝されていた。そのブームのさなかに、NHKがニュースで内容を一部紹介していた。
その著者がタクシーに乗った時、高齢の運転手とスマホの話になったらしい。運転手は、自分はスマホを使っていないのだが、子供や孫は使いこなしており、電話ができるのみならず、天気予報や時刻表や動画撮影など、様々な機能が備わっているそうだと説明した。それを受けて著者曰く、「そんな便利なものを使っていたら人間はバカになる」。
正直、脱力した。長い人生経験に裏打ちされた深い洞察が語られていると思っていたのだが、これは単なる年寄りの繰り言に過ぎない。(もちろん抜粋されたのは全体の中のごく一部分である。一部をもって全体を判断するつもりはない。引用箇所以外の部分ではなるほどと唸らされる叡智が記されているのかもしれない)
この種の言論が好評を博す理由自体はよくわかる。いつの時代にも新しいものについていけず、それを貶めることによって「ついていける人」よりも「ついていけない自分」のほうが優れているのだと自らに言い聞かせて自尊心を保とうとする人や、新しいものには必ずひととおり難癖を付けねば気が済まないひねくれ者などが一定数おり、それゆえこの種の愚痴・皮肉・嫌味発言には常に需要があるのだ。あまり建設的とは思えないが、それによって留飲を下げ、心穏やかに生きていくことができるのなら、清涼剤的な役割を果たしているという意味で、社会的な存在意義はあるのだろう。
さて、小生は何もここでこの著者を批判しようとしているのではない。ベストセラー現象の浅墓さを嘆いているのでもない。
「便利なものを使っていたら人間はバカになる」という主張に考察を加えてみたいと思っているのだ。

「〇〇を使っていたらバカになる」という意見もまた、取り立てて目新しいものではない。「テレビばかり観ていたらバカになる」や「ゲームばかりしていたらバカになる」などといった派生形も含め、「何かに頼りきりになることで元々の能力を喪失してしまう」という考え方は昔からある。
どれくらい昔からあるのか。私見の及ぶ限りでは、それは文字の誕生の頃からあったと推察される。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、「産婆術」という独自の対話法によって思索を行うことを哲学的営為の中枢に据えていた。対話によって自分と相手がこれまで意識してこなかった問題を浮かび上がらせ、これまで辿り着けなかった結論を導き出す。それがソクラテスの“生きた哲学”であった。
ソクラテスの思想は弟子のプラトンによって記録されており、そのおかげで今もなお彼の叡智に触れることができるのだが(プラトン以外にもソクラテスの言葉を記録していた同時代人はいたのかもしれないが、その辺に詳しくない小生には詳細はわからない。悪しからず)、ソクラテス自身は己の思索を文章という形で残そうとはしなかった。ソクラテスは文字というもの、文章という書き記されたものにはよく注意するようにと口にしていたという。それは一体どういうことなのか。
我々の感覚では、優れた知性の持ち主であれば、それを人類の共通財とすべく文章化し、後世に伝えるべきではないか、と思えてしまう。しかし、ソクラテスはそうしなかった。
何故ソクラテスは、自身の思想を文章で記録しようとしなかったのか。
ひとつは、ソクラテスにとって思想とは、常に生成変化する動的なものと覚知されていたからではないか、と考えられる。対話によって生み出されるのが思想なのだとすると、文字によって綴られた思想は、テクスト上にその動きを封じられ、一切の変化の可能性を断たれた標本のようなものということになるだろう。
人間というものが常に変化し続ける存在であるのと同様に、思想もまた変わり続けねばならない。心臓が鼓動を打つのを止めた時に人間の生命活動が終わりを告げるように、思想もまた文字によってその活動を封じられた時に死ぬ。ソクラテスはそう考えていたのかもしれない。もっと言えば、思想の内容がどうあるかに関わりなく、動的であることそれ自体が重要なのだと思っていた可能性もある。
もうひとつ考えられる理由は、テクストの対話不能性を嫌ったのではないか、ということ。読書とは、読者による一方的な読み込み作業である。そこには、対話のような双方向性は確保されていない。
読者は、能動的にテクストを読み、その内容を受容する。この読み込みとは、必ずしもそこに書かれた意味をそのまま理解することではない。往々にしてそれは「解釈」となる。自分自身の主義主張にとって都合のいいように内容を捻じ曲げ、あるいは自身の微細な知的容量の範囲内に収まるようにそのサイズを切り詰めて理解する。それが“読み”において――往々にして、というより、むしろ抜き差し難く――発生してしまう「解釈」という現象である。
ただ読み込む過程では、そこに書かれてはいないものを見つける、という事態も起こりうる。なんとなれば、“読み”というのは、書かれたものを一方的に受容することのみならず、書かれたものと読者の知性の衝突・相克であるからだ。それは産婆術と同様、動的で生産的な行為と言えるので、必ずしも書かれたものを読むことは思想の停止を意味するものではない。
その意味で、読書を「著者と読者の対話」と捉えることもできなくはない。実際そのように考えている人は少なくない。
しかしそのような場合であっても、読者の対話相手となるのは、本物の著者ではない。テクストを通じて、読者によって仮想された、仮構としての著者である。プラトンの著作を読み込むことで立ち現れてくるプラトン像は、プラトン本人の忠実な写像ではない。しかも大半の場合、読者の知的スケールに合わせて歪められたり撓められたりして、矮小化されたプラトンになってしまう。
だからソクラテスは、偽者のソクラテスを生み出されることを嫌った、とも考えられる。

(後編に続く)