(※2019年10月30, 31日に、別所にて一連に投稿したもの)
アウグスティヌスの地の国と神の国という対立は、昨今のイタリア哲学においても問題化されている。それは、愛の相違でもある。(ここでいう国とは、都市 cīvitās ぐらいの意味である。英語では『神の国 Dē cīvitāte Deī contrā pāgānōs』は The City of God と翻訳される。)そして、神に背反することも社会的であり政治的、宗教的といったのはマッシモ・カッチャーリだった。
「敵対する者はアナーキーなのではなくて、“神に背反する”者なのだ。そして背反を“組織する”ことは、同時に社会的でもあれば、政治的でもあり、さらにはまた宗教的なことがらなのだ。」——マッシモ・カッチャーリ『抑止する力』邦訳p.81
「それゆえ二つの愛が二つの国を造ったのである、すなわち、神を軽蔑するに至る自己愛が地的な国を造り、他方、自分を軽蔑するに至る神への愛が天的な国を造ったのである」——アウグスティヌス『神の国』
この場合、自分を軽蔑するとは単なる自己蔑視や自己嫌悪とは違う問題だろう。だが、アウグスティヌスのいうカリタス caritas とは、罪の—つまり偽りの—自己愛から、真の—つまり正しい—自己愛へ方向を転換させ、完成に導く、人間の心に“注がれる”ものと説かれていた(恩恵との関連)。また、アウグスティヌス的な二分法は、享受 frui と使用 uti の違いとしても考えられる。つまり、愛には享受する仕方と使用する仕方とがある。
「享受とはあるものにひたすらそれ自身のために愛をもってよりすがることである。ところで使用とは、役立つものを、愛するものを獲得するということに関わらせることである。この場合、愛するものとは、それに値するものでなければならない。」——アウグスティヌス『キリスト教の教え』
「善人は神を享受するためにこの世を使用するが、悪人はそれとは逆に、この世を享受するために神を使用している。」——アウグスティヌス『神の国』
つまり、ここでの善悪とは“外的な”規範遵守としての道徳性とは異なるだろうが、享受-使用の方向性の違いとして言われている。つまり、悪においては目的(享受)と手段(使用)のあいだの関係(秩序)が転倒するに至る。
では、なぜそのような事態が生じたのか? あるいは、ここでの救済の問題とは?
確かに、ここでの秩序の毀損という問題に基づいて、キリスト教的な救済とはある実効性をもっている。手段(使用)と目的(享受)の秩序とは、単に固定的で客観的なのではない。それは主体的な行為の中に「関連づける」という働きを持っている。つまり、その秩序はスタティックなプラトン的な天上の理念性とは違ったあり方をする。それは、「配置 dispositio」関係を成立させるような秩序という意味では、愛の経済 oikonomia を実現してもいる。ギリシア語のオイコノミアの訳語として、ラテン語のディスポジティオが採用されているのも頷ける。まさに、それこそが生の形式 la forma-di-vita として考えられていることを見ないなら、アガンベンのキリスト教的なプロブレマティックも見失われる。そして、そのような秩序の毀損と回復は、時間論の問題でもあった。つまり、“失われた=毀損された”「愛の秩序」は、「時間の秩序」を通じて回復する。そこにキリスト教の真骨頂がある。これを支えるものが「信仰」に他ならない。そして、この毀損と回復の神の計画を、パウロは「予定」として据えていたのではないか? あるいは、それは神的な摂理 la provvidenza divina としても理解される。