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メタファーと転移を巡る断片的考察 (4)

2017-03-20 20:19:58 | 精神分析について
言語という形象は、もはや図像学や修辞学的な転回と共に考えなくてはならない。 それらは元々、規則を侵犯するような問題さえをも含んでいる。

言語が隠喩形成への意志として考えられるなら、そもそも言語はレトリカルに、その形象を伝えるということを、働きとして持っているということになる。 Nietzsche と Aristotélēs を繋ぐ、“仮象のレトリック”というところまでは紹介した。

言語学的転回と図像学的転回は、アナロジーでもある。この観点は、近年の神経系人文学とも関係あるだろうし、Agamben も引き受けている問題でもある。

ここから、精神分析的な意味での「転移」を、もう一度考えてみよう。 その為に、転移という問題を、無意識の“二段階の仮説作業”として、そしてその間に働く力動性の問題として、問い直してみる。更に、解釈学的なアプローチや技法論の問題もあるだろうが、ここではあまり問題を限定しないで、問い直していこう。


そもそも、精神分析的な解釈は何を目指しているのか? 意味の生産-再生産ではないことは明らかだ。 それは図像-言語の“現れ”を目指している。それはまだ、視覚的な問題に限定されているとはいえ。

図像を見ることと文字を読むことは、同一視される事柄に属する。 ここには、依然として形而上学の欺瞞がある。

一点注意しなければならないのは、この図像を見ることと文字を読むことの同一視というのは、空間-視覚的な把握の仕方としてあるということだ。 ここに、転移において働いているメタファー的な像が、視覚において限定された問題に過ぎないことを指摘しよう。

だが、これを言葉として“言うこと”に結びつけた場合、この形而上学的な同一視の問題は、時間的な差異を伴った、音節の問題へとメタモルフォーゼする。 メタファーからメタモルフォーゼ。この変化に決定的な力を与えることが、言葉を“言うこと”に他ならない。

精神分析は、パロールにその力と効果を負っている。その言葉を話すこと、それは無意識の仮説作業の第一段階から、その次の段階への移行を準備する。 今まで知られていない、同一視のレベルの無意識を言う。そこに、転移的な力動の転回も存在している。

ここに、メタファーが感覚の臆見しか伝達しないことに意義がある。 メタファーにおける像は、ある微表しか際立たせない。それは、出来事の全体をも記憶してはいない。だが、それが時間的に音節化されるなら、問題は、生成の側に移行する。 ここから、第二の仮説作業が始まる。


[メタファーの形成衝動は、Kant 的な統制的概念として機能するのかという難問]


何れにしても、精神分析的な転移においても、主体の個人史における起源と発生の、両方が問われないとならない。 それは言語に起源を措定し、その内在する構想力の問題を問う仕方と、言語を発生の観点から問い、その出来事の経験と超越を問題化する仕方の、両面が必須ということだろう。

その両極が、正に転移の力動性を特徴付けている。そして、起源にある力は、愛やセクシュアリティと不可分である。

「過去の現前、それこそが転移の現実です」Lacan


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