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per l/a psicoanalisi

名とイマージュの問題への布石(もしくは、敷居の躓き)

2018-02-13 18:32:06 | Note
ベンヤミンの感覚としての敷居——。これは単に空間的なのではない。時間が絡んだパッサージュの問題でもある。つまり、そのようなモーメントはそれ以前とそれ以後の二極を備えている。初期からベンヤミンを捕らえた問題は、その神話的でもあり魔術的なモティーフがパッサージュとしても負荷を帯びているということだった。

《事象世界の神話的な形象性格はその世界が次の事象世界によって分解されたときにはじめて現れる》——ヴィンフリート・メニングハウス『敷居学 ベンヤミンの神話のパッサージュ』p.99

つまり、こう言って差し支えない。現に事象として現れ出ている神話世界は、もはや既に、次の事象によって分解が進んでいる。事物のイマージュには、この時間の二極が極度に緊張を帯びた負荷として印されている。われわれが名前の“中に”持つイマージュ。これこそが、歴史的だ。

それは、神話や魔術との繋がりを保持しながらも、それ以後の事象世界との繋がりも保存している。しかし、それが現れ出る時には、次のものによって崩壊しているかのように。イマージュと名の問題。

名だけの人間、つまり死者は、生前と死後という二極を担っている。それは、われわれの記憶に名を持つ者として呼びかける。名の中で、密かに変転する事物の生。


アガンベンの『言語活動の秘蹟——宣誓の考古学』(2008) は、このベンヤミンの固有名に関する洞察を引き受け、ある形で名声や呪詛に纏わる政治神学的な議論として、展開させたものと言っていい。

秘蹟 sacramento というからには、これは言語活動の(仮に論理のとしてもよい)“秘密 segreto”の問題になる。言語活動の“奥義=謎 mistero”だとしたら、それは問いや知の形式があくまでも前提され、探究され得る。だが、言語活動の“秘蹟 sacramento”といった時には、それとは構えが異なってくる。

こう考えると、アガンベンの政治神学上の問題は、経済学としての奥義=謎 mistero と純粋に政治神学的な秘密 segreto として分裂していると、措定することができる。(『王国と栄光』(初版2007)ではこの亀裂が問題になったと読めるが、このような問題は最初期のアガンベンにも見受けられる)

神話的な美の仮象は確かに、そのエコノミーに捕らえられていると言えそうだ。だが、純粋に論理の仮象に至ってはどうだろうか? ベンヤミンにおいてもこの両者は錯綜している。だが、精神分析は幻想の論理を扱えるが故に、ここでは強みがある。

“象徴”とは魔術的な要素(名)があり、“アレゴリー”には神話的な要素(イマージュ)があると区分けすべきか? 両者は交錯しているが、この線で神学的なアガンベンと美学的なアガンベンの線引きはできないだろうか? 安易な要約は許さないが、ベンヤミンにおける錯綜が、アガンベンにも踏襲されている。

《ベンヤミンはすなわちカッシーラーと同じく…〔略〕…結局は魔術的象徴と神話的象徴の明確な意味論的区別を断念したのである。》(ibid., p.108)


〔仮象としての美の宥和的形式—アウラ—から救済論へ。そう考えると、幻想においては神話的な形式が強制力と恐怖を失い—つまり、大文字のファルス的なものは失墜し—、既に衰退している。〕


†ここで私が、かろうじて据えたのは、敷居に潜むヒエラルキーの秩序(閾の配置転換の構造)である。諸事物 le cose には、昼と夜のファザードがある。昼には見えていた事物のイマージュは、夜には声として囁く。‪〔古代人は、天上の星の囁きを聴いていたに違いない。〕

忘れられているのは、文字を“聴くように”読むということだ。つまり、“書かれていないこと”を読むということ。

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