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per l/a psicoanalisi

過去とメシア的記憶〜根源の渦と名〜声の経験

2018-02-01 12:19:01 | Note
(無秩序な断片的な覚書きとして…)


“L'immemorare viene definito da Bloch anche come «esperienza massimamente integrale del soggetto morale-logico».”

“Immemorare [Eingedenken] はブロッホによって、《道徳-論理学的主体の主要に欠かせない経験》としても定義されるだろう。”

“Un simile atto di redenzione è in gioco nell'immemorare: quell'Eingedenken che deve avere profondamente colpito Benjamin, attento lettore dello Spirito dell'utopia all'epoca del suo esilio volontario in Svizzera nel 1919.”

“贖いのそのような行為は immemorare、1919年にスイスへ自ら亡命した時期に『ユートピアの精神』の注意深い読者であったベンヤミンが深く感銘を与えられただろう、この Eingedenken において賭かっている。”

(Stefano Marchesoni)



ベンヤミンのメシアニズムの問題の源流に、エルンスト・ブロッホがいる。つまり、そこには記憶の問題がある。メシア的記憶とも呼べる何か。君自身が君自身を救う。だが、どの場所でどこに向かい、どうやって?


“Indubbiamente la questione della memoria e del ricordo rappresenta uno dei fili conduttori del pensiero maturo di Benjamin.” (Stefano Marchesoni)

“疑いなく想起と記憶の問題は、ベンヤミンの成熟した思考の導きの糸の一つを表している。”


«Struttura dialettica del risveglio: ricordo [Erinnerung] e risveglio [Erwachen] sono strettamente affini. Il risveglio è cioè la svolta dialettica, copernicana dell'immemorare» Benjamin

《覚醒の弁証法的構造:記憶と覚醒は緊密に相似している。覚醒はつまり、弁証法的転換点、immemorare [Eingedenken] のコペルニクス的な転換点である》ベンヤミン


“È evidente come qui non si tratta di un semplice ricordo, di una mera presentificazione o rievocazione del passato.” (Stefano Marchesoni)

“ここでのように、単なる記憶(過去の純粋なある現前化ないし想起の)が問題ではないことは明らかである。”

つまり、精神分析も単に過去を思い出すということが問われているわけではない。現在との関係におかれた覚醒の問題としての記憶が問われていて、単なる想起とは違う問題があると指摘したい。

“La «svolta dialettica» consiste nel ripensare da cima a fondo il rapporto tra passato e presente, nonché lo statuto stesso del passato.” ibid.

“《弁証法的転換点》は、過去の同様の規定はもちろん、過去と現在の関係を徹頭徹尾再考することに根拠がある。”


君を覚醒するように促す過去の弁証法的イメージ群(と名?)、それらは現在を当に“呼びかけて”いると結論づけるのは早急だろうか? この問題は、更に検討する価値がある。また、アガンベンが過去こそが現在に繋がる唯一の道と述べるにあたり、ベンヤミンの考察がもちろん潜んでいることも忘れてはならない。


バロック的ドラマトゥルギーから渦の根源。

“Notoriamente Benjamin pensa questo scarto improvviso come un vortice nel flusso del tempo...” (Stefano Marchesoni)

“周知なようにベンヤミンはこの予期できない開き〔引用者注・過去と現在のあいだの差〕を時間の流れにおけるある渦巻として考える…”

これは、アガンベンの小論でも名との関連で論究されていた。そして、名とは渦の極北として、それ自体が方向を持ち示されていた。また、別の場所では、名は“呼びかける chiama”言語活動における声の問題を孕んでいた。


«L'origine sta nel flusso del divenire come un vortice [Strudel], e trascina dentro il suo ritmo il materiale della propria nascita» Benjamin, Il dramma barocco tedesco

《根源は一つの渦として生成の流れの中に存し、そのリズムの内部に固有の始まりの物質的なものを引きずる》ベンヤミン

つまり、ここでは名によって方向づけられたリズムと声の側〔広義のフォネーや詩的韻律〕が根源として、マテリアルな享楽をも引き入れると解する方が妥当だろう。

イタリア現代哲学の宗教的ともいえる問題は、フランス現代思想の躓きをある意味で凌駕する。そして、この根源と起源の配置転換 la dislocazione がイタリア的とも呼べる思考—イタリアン・セオリー—を特徴づける。


《要請は道徳的カテゴリーではないという事実からは、要請からはなんら命令も出てはこないということ、すなわち、それは当為となんの関係もないということが帰結する。》——アガンベン『哲学とはなにか』p.55

文頭で、ブロッホの“道徳-論理学的主体の主要に欠かせない経験”という言葉を紹介した。だが、逆説的にそのような主体が経験するのは、もはや道徳的カテゴリーには属さず、命じられることもない、ただ“呼びかけられる”経験なのだとしたらどうだろうか? ここに眼差しの問題から声の呼びかけへの転換点を見出せないだろうか?


†ここで、精神分析のパロールの実践における詩的韻律と言葉の問題を再定義するのも無駄ではないだろう。身体の出来事という時も、これは言語活動との遭遇という言葉のショックの側面が強調されているに過ぎない。では、パロールの詩的韻律と欲動ならびに身体は、どのように関わるのか?

それは、通常のロゴス(理性、比率)によっては掬えない欲動の問題や身体性を備えている。それをたんに身体 corpus と呼んでいいかは、私は分からない。むしろ、そのような問題は、肉感性に近い何かではないだろうか?

以前に別所でではあるが、メルロ=ポンティにまで迂回しながら、シニフィアンには既に肉の両義性が絡み合っていることを指摘した。仮に、シニフィアンにもセクシュアリティの問題を認めるなら、シニフィアンの感性論は避けては通れまい。それは、ロゴスとセンスのあいだに一つのパッサージュを描くことになる。

私がイタリア的な問題に向き合ったのは、その“あいだの”構造に何らかの配置転換の装置が働いているということを突き詰めるためでもあった。アガンベンならそれを、“閾の思考 il pensiero della soglia”と呼んだだろう。

もう一点、重要な問題は、“言語においても”眼差しと声の差異を明確にすることだった。エクリチュールとパロールのあいだに、“無限の距離”を測定することでもあった。

私が過程でぶつかった問題は、臨床実践においてもぶつかる抵抗点でもあろう。


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