ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

イロニーへの緒言

2019-05-04 02:21:17 | Note
1. 『イロニーの精神』(ウラディミール・ジャンケレヴィッチ)

■gramma と pneuma

《思考が媒介による遅れをも承認するのは、遠慮しているからではなく、思考自身の命題が良質になるためである。》

gramma が知らないことは、否定の否定が元の肯定とは全く質の異なるような肯定であり、直裁であることよりも迂回を経る方がより大きな効力を持つことの表現の妙味だ。それは、pneuma の身振りですらある。

《……苦悩と不幸とを混同してしまう人たちは、神聖なイロニーの擬装を理解できない人と同じである。》


■美における停止と知性の病気(知性の目標それ自体がその障害物であること)

掴む掴まないのはやはり、当人の問題だろう。掴まない者を助けることは誰もできない。天使すら。

ましてや、他人に余計なお世話をする馬鹿者は尚更。人を助ける必要はなく、自分が助からなければならないのに。掴まない者については、どうしようもならない。天使 l'angolo とは、必要なイロニー l'ironia bisognosa の謂い。

そして、救済とは厳密には、人助けとは無縁だが、現実に対する時間との関わり方においてその都度要請される何かだ。

イロニーは、それが惑わす者を同時に助けようともする。だが、掴む掴まないは惑わされた者の圏内で、イロニカーの側ではない。

だが、惑う者は文字 gramma から霊 pneuma に跳躍するからこそ助かるのであり、再び意味に戻るなら、それは元の木阿弥でしかない。書くことが「目的」にある人は、やはり見せかけに留まらずを得ない。


■分析家がイロニカーなのか、分析家の運命がイロニーなのか?

(運命の十字架があたかもイロニーのように振る舞うこともある。)

あるいは、ソクラテスとキリストの違い。ソクラテスはイロニカーであり、キリストはそうではない。

ソクラテスがエゾテリックであるなら、キリストはミステリックである。それらは、広義にはスキャンダラスでもある。

(こう言うべきかも知れない。片や、理性のイロニーである。片や、運命のイロニーであると。理性のイロニーはペルソナのマスクであり、運命のイロニーはペルソナの十字架のミステリーであると。)

「好ましく、しかも偉大なものは、すべて逆説的である、とフリードリッヒ・シュレーゲルは書いている」という。

いずれにせよ、gramma が pneuma に跳躍するとは、エゾテリックかミステリックかではあり得る。その道は分析家すら分からない。だが、道は目標ではない。道を渡ることそれ自体(つまり、行為)が目標である。

《イロニーは唐草模様である。イロニーのおかげで、同じものはすでに同じではなく、別のものとなり、意識はみずからの伝統に背をむける。》


■レゾン v.s. 身振り

レゾンに対しノンを示すのは、イロニーの身振りなのか? その時、意志はパラドックスとして転倒される。

ある種の才能は、自分の才能を決して見せはしない。それは、最大限の能力を発揮させる為の配慮でもある。だが、見せかけの才能を弄ぶような輩は、半ばでいつも折れてしまう。これも、イロニカルな身振りではある。示さないことにより、かえって示し、また逆もありうる。だが、イロニーは欺瞞(虚偽意識)ではない。欺瞞をやり過ごす術すら、イロニーにはある。

一方で、見せかけの才能が弄ぶのは、虚偽意識においてである。確かに、それにもレゾンは働く。

つまり、イロニーは一段上手でもある。欺瞞の論理を逆手にとり(パラドックスとして呈示し)、その論理をかえって自らの意志として手段化する。

だが、それが何故、犠牲や死としてのドラマを伴うのか?

それが、犠牲のための犠牲ではなく(それは計らずしてより大きな利益を得る)、死のための死ではない(それは、復活する)にも関わらず。

あるいは、この上なく器用な不器用さ。

《キルケゴールによれば、偽善者とは自分を善人にみせようとする悪人であるとすれば、他方イロニストとは自分を悪人にみせかける善人のことであろう。》

「きわめて明白にあらわれた弱さは、すべて力である」——パスカル

《ひとり強者のみが、弱くなる権利をもっている。》

《否定は、判断に対する判断であり、したがって肯定の遠回しな言い方、あるいは迂言法であるゆえに、間接的で副次的なのではないだろうか。否定は肯定することへの羞恥であり、それは、常に突進しようとまちかまえており、絶対的になろうとしているわれわれの生来の独我論的傾向をおさえるエポケー〔判断中止〕である。》

つまり、「ではないかのように」とは、遠回しの「イエス」なのだ。これ見よがしに知者ぶる連中には、注意しよう。

ここでも、虚偽(意識)の連続性に対し、イロニー(的な身振り)の不連続性という問題を、我々は見出す。


2. 精神分析におけるイロニー

「感じる能力のない者に、わからせるなど出来るものではないのである。」——カフカ「断食芸人」

■無意識のイロニーと偶像崇拝

精神分析の概念は、頭で理解するものではないし、それが頭で理解しても全く役には立たない。それは、イロニーを通じて教え導く以外に方策はない。

だから、情熱のない人間、知識で教えようとする人間は実際は教師にはなれない。彼らは不甲斐なさという在り方しか示さない。

例えば、精神分析の解釈はある意味を狙っているわけではないということを承知しつつも、自らの論文作成においては充実した意味を目指している輩もいる。——この不甲斐なさとは一体?

解釈が目指すのは、意味の空虚のはずである。これを別名、「否定性」と呼んでもいい。だが、自らの論文作成術において「享楽の肯定」(あるいは、物質性)のような詭弁に堕する人間がいる。——この不甲斐なさは一体?


■師と弟子

例えば、師が示すものは何か? 弟子は、師に対し、自らの願望や空想により、ある肯定的な概念を付け加え、身勝手な物語をでっち上げ、それに安心し胡座をかく。だが、師が示すのは、自らの「否定性」の根拠以外ではないのだとしたら?

だが、否定性は忘却されるか穴埋めされるかして、様々な偶像とその崇拝が捻出される。

翻って、こう問うこともできる。我々は、仮に師と称する者の教えと導きを「直接的な確実性」の下に把握し、理解することができるのかと。だが、それはただの誘惑でしかなく、その教えや導きを歪めることにならないのかと。

仮に、無意識の「概念」を措定してもいい。それは、主体の内で「イロニー」として再現される以外ではないのだとすれば? そう考えれば、師の教えはある意味では、そのような無意識のあり方に忠実だということにもなる。だが、早急な連中はそれを実体化し、肯定的な外観を与える努力をする。

そう、それも努力ではある。我々は、根拠なきものの根拠のために、努力すらするのだ。それが見る者からすれば、虚しいにも関わらず。

キルケゴールは「イロニーは愛における否定的なもの」という見解を述べている。それは、エロスにとっては“抽象的な規定”と呼べる何かだろう。


■分析におけるイロニーの二重分節

解釈が、言語として構造化されている無意識をイロニー化し、同時に分析家の空虚の場としてもイロニーを導くというべきか? その場合、イロニーは二重化される。方や、反語としての記号的なイロニー。方や、その場として否定性としてしか顕現できないイロニー。〔言葉の身振りとしてのイロニーとソクラテス的な立場としてのイロニー〕

前者の記号的なイロニー、レトリックは無意識における複数のコンテクストを認める立場に主体を置く。だが、後者の否定性のイロニーは、それらコンテクストの成立が実際は根拠がないことを明かす。この揺れ動きこそ、実際の分析の場面において主体を反復的にドラマ化してもいる。

分析における解釈と沈黙。これを二つのイロニー的な分節化と呼んでもいい。(ここではまだ、フモールについては触れない。)

それは、アルカイックなものの符牒でもある。外部から見るなら神秘的にも写る秘密の蝶番。レトリック的なものとソクラテス的なもの。——アルカイック、欲動の太古性。

(結局、論文作成術化—その目的論化—という道はある種のコードに逃げ込んでいる姿なのではないか?

もちろん、イロニーと冷笑は区別されなければならない。イロニーは、単なる皮肉屋の冷笑—その袋小路における躓き—とは全く違う相貌がある。また、イロニーは嘘でもない。イロニーが真に敵にするものこそが、生真面目な連中の嘘である。)


■ラカン的主体の主体化

主体とは、何らかの根拠や理由があって主体になるのではない。もはや根拠や理由がない地平で「決断」することにより主体になる。

その意味では、ラカン的主体こそが主体にならなければならない。こういう逆説は“論理の弄び”とは違う。それは「行為」である。

では、ラカン的主体は如何にして主体になるか? 決断だと先に言った。以前までの考察で、私は既にヒントは出している。宗教的には「向き変え」や「回心」、精神分析的には「退行の作業」、あるいは両者に共通しそうな言葉で言うなら「断続的な覚醒」(連続的な蒙昧化ではない)。

真理とは、客観的な真理のことではない。客観的な真理が“説明”される時、人は主体的な真理が何たるかを忘れ去り、「内面化」がどういう事態であるかも気づかなくなる。実は、フロイトにおいてもこの問題は残されていた。死の欲動が思弁のままなのか、あるいは主体化の真理として(超自我として)内面化されるのかというテーマとして……

ここから、悟性的な認識—理論の問題—と信仰—実践や行為の問題—の関係を問うことは有益だろう。両者は連続などしてはいない。それは、キルケゴールの言葉においては「パラドックス」と呼ばれ、「客観的に不確かなものを無限の情熱をもって選びとる冒険」とも言い換えられる。

(ヘーゲルにおいては、有限精神と無限精神の関係は連続的であり、同質的であるが故に、「直接的」である。キルケゴールの場合は、有限者と無限者との間には“質的差異”がある。)


「信仰のくだす結論は、推論 Schluß ではなくて決断 Entschluß である」——キルケゴール『哲学的断片』


悟性的推論の力では最早把握できないパラドックスを主体的に選び取るところに真理があり、信仰が存在する。それを、ラカン的な“真理のパトス”と呼んでもいい。つまり、ラカンにおける“真理のパトス”は、その「イロニー」や「パラドックス(という冒険や選択)」と不可分である。


3. 実定性と装置

実定性 la positività と装置 il dispositivo は、イロニーの関係にある。

実定性とは、自然現象の有限な〈一〉への外在的な措定(肯定)としてある。それは、未だ内面化されていないという意味においては、根源現象であろうと同じである。

だが、装置 il dis-positivo(否-肯定的なもの)において、それはどのような様態に置かれるのか?(ラテン語の接頭辞 dis- には、「分離」の意もある)

これが、アガンベンにおいては神学的救済論の射程になることは言うまでもない。だが、実定性と装置の問題は、広義には有限のものと無限のものの間のある関係を問いに付してもいる。方や、始まりと終わりがあるもの。方や、永遠に属するもの。(永遠においては、始まりも終わりもないのは明白だろう)

つまり、享楽の肯定性あるいは物質性といってみたところで、それは有限の“人間の”享楽—その現象的な制限—なのだ。だが、それが“神的なもの”と真に向き合った時に、我々は実存の問題に真に導かれ、主体的な立場を再び選び取る。

ここにおいて、我々は現象と本質が、ある差異を伴ったものとして“経験”され、単なる自動的で同一的な反復としての“愚かさ”から自由になる。あるいは、両者のオイコノミア oikonomia の“質的な”差異としての、経験=試練 experimentum の道を通る。

(その意味では、終わりある分析と終わりなき分析の問題は、実存的な要請を絶えず神的なものとの関係において、開いておくことになるだろう。)

「イロニーは否定的なものとしてある道である。真理ではなく道である」——キルケゴール『イロニーの概念』


4. “キルケゴールにとっての”イロニーの道

キルケゴールにおけるイロニーは、彼の実存思想とキリスト教的な問題の両面に渡ってもいる。この二面性を我々は「例外」(聖なるものの犠牲≒死)と「救済」(イメージの理念性)として、アガンベン的テーマに引き寄せて考えることができるかもしれない。

絶対的無限否定としてのイロニーは、主体を例外の立場におき、倫理的段階に導くことを許す。だが、このような倫理的な主体は、法の「犠牲」にもなる。しかし、倫理的な問題の犠牲になる主体は、如何にして贖われ、救済されるのか? イロニーを通じて、倫理的なものと宗教的なものの極限が予見される。ここに我々は、ソクラテスとイエスを顧慮しなければならない。

(イロニーはキルケゴールの位置付けでは正確には、審美的なものと倫理的なものの矛盾を明かすのだった。しかし、“イロニカー=ソクラテス“の立場にとっては、極限では法の犠牲という問題が付き纏う。)

審美的段階、倫理的段階、宗教的段階。——これらも、直線運動のように進展・進歩すると考えてはならないだろう。これらは、ボロメオの結び目のような入り組み方をしているに違いない。


キルケゴールによれば、ソクラテスはイロニーにその身を捧げ、犠牲になった最初の哲学者である。その師のあり方は、審美的な段階にあるエロスの魂に、倫理的なものの覚醒を導くのだった。

だが、ソクラテスは法の犠牲になる。

“絶対的な“無限否定の道。その意味では、ソクラテスとドイツ・ロマン派は、“批判的な”立場としては共通のテーマがある。ソクラテスにおいては、“主体性の運動”が前景にあり、ロマン派においては“理念の客観性”が主体を滅却させることに重要性が置かれる。

犠牲という意味では、このようなイロニーの主体性の運動—ソクラテスの立場—と客観性の優位—ロマン派的にはそれはイデーである—は矛盾していない。実は、キルケゴールはこの両者を“内的に” 折衷させる必要性があったのではないだろうか? それがあたかも、ヘーゲルを論敵にするという外観を呈してはいても。


5. 美のイメージの二極性と信仰上の闘い

美のイメージにおいて既に、倫理的なものと宗教的なものは交叉している。それは、只のイメージではなく、根源のイメージである。分離の根源として機能するイメージは約束、つまり名である。

だから、論理や議論ばかりで名を自らの体系に包摂させることに腐心する連中は、救いようがない。名の機能は本来、言語活動の論理とは別の地平—本来の歴史性、現実の歴史—を開く。

君の名に賭けてとは、神(の名)への誓約に等しい。そういうイメージは、絶対的に否定的である以外にない。そう、歴史は頭の中のイメージ—言うなれば、ポジティヴなイメージ—ではないということに、錯覚の世界の住人は気づかない。そして、その論理で歴史をでっち上げる。

イロニカーの敵は、論理でいつも身の潔白を証明しようとしている。(だが、そのような腐心の裏には既に嘘がある。意図的な嘘が。)

「信仰は証明を必要としない。否、証明を自らの敵とすらみなさなければならない。」——キルケゴール『後書』

最新の画像もっと見る