アリストテレスの正義論(ここでは、『二コマコス倫理学』第五巻に限定する)で面白いのは、能力や学問においては、相互反対なことを結果することが可能という指摘だろう。 例えば、不正にそれらを用いれば、それらの有用性の反対の結果を生じさせる。 医学は健康も、病気をも生じさせることが可能である。
だが、「状態〔ヘクシス hexis〕」については相互反対なことが結果するというわけにはいかない。例えば、健康な「状態」からは、もっぱら健康なことが為されるに留まる。 これは、精神分析を考える上でも面白い。
※注:「ヘクシス hexis」は、ラテン語訳では habitus。邦訳は難しいが、アリストテレス倫理学の重要な概念。ここでは、岩波文庫版の訳に準じている。
精神分析を能力や学問の水準で考えるなら、その能力や知見を、名誉欲の“不正な”利用に歪め、全く反精神分析な帰結を生み出す。 まさに現在は、これが優勢である。だが、精神分析における教育分析の問題を、行為と徳、それらが生み出す「状態」に基礎を持たせるとしよう。
そうすれば、精神分析の伝達とは、倫理的徳の伝達であり(それは知識のようには伝達できない)、そのような徳の“活用〔クレーシス〕”に懸かっていることに同意できる。
つまりは、精神分析の知識の所有ではなく(それは、“不正に”用いるなら、反精神分析的な結果を生じさせる)、徳の“活用”において、教育分析の問題を考えればいい。
精神分析を学問上に限り、それで名誉を計るのだとすれば、精神分析は道を間違えるに違いない。そこからは、悪徳が栄えるだろう。
ちなみにだが、アリストテレスは「状態 hexis」についてはしばしば、その主体、それに関係ある基体〔ヒュポケイメノン=subjectum〕から知られるとも述べている。 この用語参照も、精神分析的主体を再考する上で重要な示唆になると思われる。
自らのパロールに従属した分析主体は、倫理的な「状態」の主体でもある。そのような「状態」を据えるようにさせるのが、精神分析的行為ではないだろうか?
†アルケー〔始原〕や、それを何らかの仕方で代理する政治は、エコノミーの問題にもなる。 事物の配置・配剤・分配に関わるのが、本来のエコノミーの語源(アリストテレスに由来する)であることは有名だ。
そう考えると、(症状のアナロジーとしての)無意識の政治経済学というのも、ある公平さが求められると言えまいか? 分析家は、それらをジャッジするわけではないが、少なくとも聴取においては、公平さを保持してはいる。
症状におけるリビドー量や疾病利得といった問題、セッションの料金の設定や時間に至るまで、何らかの「正」という観点は、あり得る。これらは、オイコノミア=エコノミーという包括的な概念でもって、測られる問題と言えるだろう。
※注:アリストテレスは、家政的な正〔オイコノミコン・ディカイオン〕と市民社会的な正〔ポリティコン・ディカイオン〕を別個に扱う。
だが、「状態〔ヘクシス hexis〕」については相互反対なことが結果するというわけにはいかない。例えば、健康な「状態」からは、もっぱら健康なことが為されるに留まる。 これは、精神分析を考える上でも面白い。
※注:「ヘクシス hexis」は、ラテン語訳では habitus。邦訳は難しいが、アリストテレス倫理学の重要な概念。ここでは、岩波文庫版の訳に準じている。
精神分析を能力や学問の水準で考えるなら、その能力や知見を、名誉欲の“不正な”利用に歪め、全く反精神分析な帰結を生み出す。 まさに現在は、これが優勢である。だが、精神分析における教育分析の問題を、行為と徳、それらが生み出す「状態」に基礎を持たせるとしよう。
そうすれば、精神分析の伝達とは、倫理的徳の伝達であり(それは知識のようには伝達できない)、そのような徳の“活用〔クレーシス〕”に懸かっていることに同意できる。
つまりは、精神分析の知識の所有ではなく(それは、“不正に”用いるなら、反精神分析的な結果を生じさせる)、徳の“活用”において、教育分析の問題を考えればいい。
精神分析を学問上に限り、それで名誉を計るのだとすれば、精神分析は道を間違えるに違いない。そこからは、悪徳が栄えるだろう。
ちなみにだが、アリストテレスは「状態 hexis」についてはしばしば、その主体、それに関係ある基体〔ヒュポケイメノン=subjectum〕から知られるとも述べている。 この用語参照も、精神分析的主体を再考する上で重要な示唆になると思われる。
自らのパロールに従属した分析主体は、倫理的な「状態」の主体でもある。そのような「状態」を据えるようにさせるのが、精神分析的行為ではないだろうか?
†アルケー〔始原〕や、それを何らかの仕方で代理する政治は、エコノミーの問題にもなる。 事物の配置・配剤・分配に関わるのが、本来のエコノミーの語源(アリストテレスに由来する)であることは有名だ。
そう考えると、(症状のアナロジーとしての)無意識の政治経済学というのも、ある公平さが求められると言えまいか? 分析家は、それらをジャッジするわけではないが、少なくとも聴取においては、公平さを保持してはいる。
症状におけるリビドー量や疾病利得といった問題、セッションの料金の設定や時間に至るまで、何らかの「正」という観点は、あり得る。これらは、オイコノミア=エコノミーという包括的な概念でもって、測られる問題と言えるだろう。
※注:アリストテレスは、家政的な正〔オイコノミコン・ディカイオン〕と市民社会的な正〔ポリティコン・ディカイオン〕を別個に扱う。