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美の理念から陶酔の感覚

2018-02-15 18:51:47 | 精神分析について
1. 美的な理念においては、それが抽象による束縛は免れていないにせよ、恐怖や強制力が縮減されているということが重要だろう。その最初の形象が《アウラ》と名指された。仮に《一》の理念を措定するにせよ、それには既に大文字のファルスは効力を失っている。

ラカンを読む限りでは、その部分はどうも不明瞭に留まるし、はっきりと言明もされていない。ある識者も、《一》の享楽と《ファルス》享楽の区別については分からないと言っていた。

仮にだが、精神分析のプログラムのような構想をするなら、美の理念や領域に関する考察は絶対に外すことはできない。もちろん、神話的な美が無条件に称揚されてもいけない。だが、美の考察を抜きにしては、精神分析が何たる実践かは伝えることはできない。

神話の中で沈殿した暴力。『暴力批判論』における、“神話的な”暴力と“神的な”暴力の対立。精神分析の中では、最初から神話的な暴力装置を停止させるような神的暴力が問題になっていたとは言えないだろうか?

法概念に既に、人間の運命や罪、贖いという問題は含まれている。だが、精神分析はそれを終わらす。受け入れられがたい。それを抵抗と呼んでいいかは分からない。精神分析それ自体の抵抗とその彼岸。敷居という観点から見れば、贖いや贖罪、犠牲という問題も二重化している。

法の圏内でナルシスティックに犠牲を美化していること(残酷)と、法との闘争において自らを犠牲にすることは、贖罪や贖いという見方からも異なってくる。罪を存続させる為の美化に陥った者と、罪を終わらす者。


2. 精神分析のペスト性とは、その用語法と裏腹に神的暴力のことだと考える。

精神分析の(無)条件性についてだ。ここに、分析家が担っている問題と、分析主体(になる者)の問いの決定的な非対称性がある。

“無意識の”主体においては、決定的に何かが“終わっている”。だが、その主体はパッサージュに躓いている。精神分析は、それを転移において再び遂行する。


3. 書物が理性の調和に回収されるだけか、書物が一つの傷口なのか? アコギな著作をまた出しただけなのか?

古い法を再建し、復讐の等価交換を演じただけなのか? あるいは、新しい法の中に消える“最初の”英雄になったのか?

“現前していること”のペテンな法の装置の歯車に終わるのは何故か?

贖いとは、罪なき者が消え去るということだ。そのような意味での贖いは、“高次の”犠牲になる。彼・彼女は神話的な世界に回収されたのではない。ヒエラルキーという意味で“高次の”象徴秩序(名)の犠牲になった。罪なき人間が。

ここに一つ、崇高な震撼させる問題がないだろうか? ベンヤミンはゲーテの《結晶化》という概念に、革命の契機を見とる。崇高に“動的なもの”を見たカントとは対照的に、ベンヤミンにとって革命は水が氷に変化するが如く、瞬間の停止(“質的変化”)の契機なのだ。だから、彼は名において革命が進行していると言うことができた。

革命に熱狂を見てはいけない。革命とは本質的に、時間が停止する震撼という崇高な契機に他ならない。それは、名の中で静かに進行している。


4. 〔革命とは、熱狂とは無縁だ。それは醒めている。熱狂し浮かれている連中は、そんなことに思いも及ばない。だが、革命とは名の中で“密かに”進行している。熱狂を夢見るのは、その者“自身”が病んでいる証拠だ。〕


5. 神話的なものの時間形式は、反復だとベンヤミンは定義している。ここから、永遠回帰の問題点が浮かび上がるが、永遠回帰がそれ自体パッサージュの問題ということまでは、思い至らない論者が多い。つまり、永遠回帰は同一物の空間的布置の回帰である一方で、そのモーメントの亀裂までも予見する。

モーメントであるということは、その布置関係には、それ以前とそれ以後の問題が横たわっているということだ。だから、ニーチェのように永遠回帰は、敷居の“躓き”にもなり得た。神話的な強制力が衰退するのを“美”において見抜いたベンヤミンは、アウラの輝きを無自覚ながらかその同一物の“中に”見出していた。

神話的な強制力に服した秩序とは、むろん空間的な布置(それをシニフィアン的な布置と言い換えても間違いではない)を持っている。だが、その同一物の布置が揺らぐ契機もその中に潜伏している。精神分析の対象は、それが“一回性”を失った対象であると思い出してもらおう。

そう考えると、ここでもファルスの意味作用の支配下にある問題(シニフィアンの空間的布置関係)と、それを逃れ、転覆させる対象の問題(その一回性を失った対象)という二重化された構造が浮かび上がる。

つまり、分析空間(その移行を含めれば時間)は、両義的だ。かたや恐怖症的な対象(Φ)によって反復される問題点があり、かたや無意識の対象として、その布置関係を変化させ、最後には主体を転覆させるような情動のドラマがある。

ここまでの帰結として、美的な対象の側には既に、ファルスの強制力を宥和させるような力学(非の潜勢力)が用意されていると見なせないだろうか? 分析家が担うのは、対象のポジションでもあるが、そのような対象に既に働いている、−Φ 的な停止点でもある。

〔単なる“S1 の再生産”のような解法では、どうとでも言えてしまう。それに内在している問題までは、見えていない。永遠回帰は、歴史的出来事を再生産するというテーゼがある。〕


6. 享楽というだけなら、それが“熱狂的”なのか“陶酔的”なのか分からない。ベンヤミンはある著作で、“陶酔による自我の弛緩”ということを言っている。それとは対照的に自我が強化されるような享楽や熱狂もあり得る。

アウラとは、美的理念の宥和的形式でもあるのだから、この効果(陶酔)により自我が弛緩するというのは、私たちが美しいものについて抱く態度とも関係なくはない。

麻薬以上の麻薬とは、自我—とりわけ“強化された”自我—なのだとしたら? 事態は一転する。享楽は、毒にもなることを忘れてはなるまい。

自我の目覚め? その覚醒? 危うい。自我とは、それ自体が麻酔薬だ。確実な自我とは、麻薬の一変種だ。ベンヤミンの実験の逆説だろうか?

精神分析は何故、パロールから始めるのか? 人間が言葉を話す。あるいは、韻律を紡ぐ。そこに既に、音声による陶酔(自我の弛緩の効果)があるのかもしれない。それはエクリチュールにより確証を得る“手腕”とは全く違う。


7. 他者に色あせた自我のイマージュを見るための奮闘は、熱狂と徒労に終わる。陶酔とは、逆に醒めている。

本来的に麻酔薬、麻薬たる自我の覚醒ではない。自我の弛緩による陶酔は、目覚めを伴っている。恋愛も陶酔の経験を伴う。

根源経験(享楽体験ではない)とは何だろうか? それは、事物の名の“中に”参入することだ。その名と事物のイマージュの繋がりを通過—パス—することだ。つまり、偶像崇拝による熱狂とはまるでその経験は異なる。

夢のイマージュの中にも、物のイマージュの名残りが既に潜み、呼びかけいる。名の中に残ったイマージュの言語。それを、フロイトは“夢の思考”と呼んだ。それは、《象形文字》のように判読できるのではなかったか?

そう考えると、精神分析において名の問題は、そのイマージュと不可分であることが伺い知れる。その意味で、精神分析が夢を扱うことは、核心=革新的である。

そこには思考の根源経験が印されている。
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