房総閑話

廉価版コンデジでどれだけ撮れる?

源頼朝千葉市南部経路考 - 検証 ~ 上総広常 ~ 玉前神社(千葉県長生郡一宮町)

2014-09-19 01:45:34 | 源頼朝千葉市南部経路考
旅程を考えていてひとつ疑問が出てきました。
9月4日に和田義盛を上総広常のもとに遣いを出して戻ってきたのが9月6日なんです。
往復で3日、片道1日半。
広常は御宿から一ノ宮のどこかにいたとしても、州崎から御宿まで約70km、一ノ宮まで約90kmあります。1日の行程を30kmとすると片道だけで2日から3日かかることになります。1日半では40km前後しか進むことが出来ないので広常の館にはたどり着けないのです。
版図拡大で上総国全土を勢力範囲にした広常が隣国の安房国にアンテナを張っていないと言うことはありえないと思うのです。それも頼朝が上陸したのは安房と上総の国境の勝山付近なので、広常は頼朝上陸の翌々日の9月2日には知っていたのではないでしょうか。

9月3日に発ち9月5日に安房鴨川あたりで和田義盛に合ったのではないでしょうか。
和田義盛は安房に所領がある三浦氏の支族でかなり勝気ある武将。広常もまさか義盛が使者としてくるとは思わなかったと思います。「千葉常胤は頼朝についているから南から北から滅ぼしてやる」、くらい言ったかも知れません。

9月7日に館に戻り、上総国各地から兵を集めます。2万の軍勢と言われていますが、これが2千でも人集めに各地に行く往復の時間は短くなるわけではなく同じです。往復で6日から8日かかったでしょう。

9月15日に館を出発。一ノ宮なら国府の市川まで63km、御宿なら85km。大軍の行軍は1日20km(豊臣秀吉の中国大返しが2万の軍勢で1日20km)なので3日から4日かかるので9月18日か19日に市川に着くことになります。

広常は頼朝に非難される謂れはまったくないでしょう。

広常も義盛も北条氏に滅ぼされてしまったのでここらの経緯はまったくの想像でしかありえません。


広常の屋敷が在ったとされる長生郡一宮町の玉前神社(たまさきじんじゃ)。
撮影は2008年5月6日。

玉前神社は上総国一ノ宮で式内社です。







境内には国歌にある『さざれ石』があります。


(Canon IXY 70)


ブログランキング・にほんブログ村へ   人気ブログランキングへ   


誰か~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(泣)、
仕事(就職)紹介してください、お願いします。
トホホホホホホホホホホホホホホホホ(爆泣)状態です。

興味ある方は、コメントまたはメールをどうぞお願いします。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿