昨今、よく見知ってる芸能人著名人の訃報を見聞きする。
訃報に直面すると、それだけ、私も歳を重ねてきたのだと、つくづく思い知らされてしまう。昨日、リアルに知ってる方の訃報が、夕刊に載っていた。
この方は、作家で、私が十数年前に通っていた、大阪の谷町という場所にある文学学校の講師もしておられた。私は、この方の教室の生徒ではなかったが、特別講義を時々、聴講していた。
この講義は、師が課題を出し、たとえば「汗」とか「夏」とか、それに対して、生徒が師へあてて、短文を提出、作者名を伏せて合評するというスタイルを取っていた。私は、実に生々しいものを課題に沿って提出していたが、師は、私の作品に対して、「映像的」という評価をされた。
確かに、私の文章は、映像表現に適しているものが多かった。
おそらく、私の構築方法が、先に頭の中にある映像を、文章として綴っていくという独特のスタイルを取っていたので、そのような表現になってしまったのだろうと思うが、そんな構築方法など、種明かしをしたことはないので、師の眼は実に適確に、私の文体の特徴を捉えていたと言える。
メカニカル畑出身の師には、技術者が持つ確かな眼が、備わっていたのだろう。
文章表現は、ある意味、文章の職人であると言える。
そういう意味では、技術者のほうが、作家に向いているのかもしれない。
これが当時の生徒作品集だ。
たぶん、いまでもこの学校はあると思うが、その後私は、いまいちその学校とそりが合わず、単独執筆の道を選んだ。
そして、現在は休筆状態にある。
だから、師に会ったのは、在校中が最後ということになるが、
初めて、その学校の説明会に行った時のことを、私はよく憶えている。
説明会が終わり、何人かが、師と一緒に、コーヒータイムをしようということになった。学校から歩いて数分のとある喫茶店で、師を囲み談笑をした。
師は、いろんな年代の生徒希望者に囲まれても、普通のおじさんだった。
技術者っぽいメガネ。地味な格好。小一時間を過ごし、会計をするという時、師は、片手に納まってしまいそうな小さながま口から、お金を出したのだが、そのがま口が、ぼろぼろで、なんとなく、「ほんまにこの人有名な作家なん?」と、私は思ってしまったのだった。
師よ、あの日の私を、どうかお許しください。
心より、ご冥福をお祈りいたします。
※文学学校は大阪谷町という場所にあります。
この谷町というのは、「タニマチ」の語源になったといわれています。
谷町に住む歯科医が、力士の治療を無料で行っていたため、面倒をみる、スポンサー的な人を「タニマチ」と呼ぶようになったということです。