ギャラリーと図書室の一隅で

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芸術にしか出来ないこととは何か―『地域アート 美学/制度/日本』を読む(1)

2016年08月26日 | 読書ノート
「街おこしアート」といった言葉を聞くと何とも居心地の悪い思いをしてきた。アート―美術や芸術といいたいところだが―とは極めて個人的なものであると同時に、絶えず社会との緊張関係を持っているものではないかと思うからだ。しかし今や公金を投じて、自治体が主催するアートプロジェクトが、全国各地で行われている。地域に活力を、というのがねらいだ。作品の多くは現代アートで、地元の人や若者が参加するインスタレーション的なものが多い。
そもそも文化とは地域振興を目的とするものではないと思っている。伝統文化や芸能、既に価値の定まった美術品などを使って人を呼び込もうというのならわからないでもない。だが現在進行形の創造活動を地域活性化に結びつけること、目的化することにはどうにも違和感を覚えてしまう。といって、限界寸前の集落に若者が集まり、地元のお年寄りが喜々としている光景を見て心が騒がない、と言ったら嘘になる。やっぱりアートの力なのだろうか。ここではアートとは何か、と問うことは無意味なのだろうか。
そんなもやもやとした気持ちに、議論の契機を与えてくれそうなのが藤田直哉著『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)である。著者の定義によれば「地域アート」とは、ある地域名を冠した美術イベントのことである。
まずは巻頭論文「前衛のゾンビたち―地域アートの諸問題」が、日本の現代アートの問題を浮き彫りにする。そこでは現代アートが地域活性化や経済効果の手段として消費され、多くの人を巻き込み協働する「関係性」自体の快楽が「美」と認識されているらしいこと、プロセスこそが重要であり、「開かれている」がために鑑賞者には全体像が見えにくく、批評しにくいこと、したがって質を問いにくいこと、公金が使われているがために制約があることなどである。そしてイベントの中心を担っているのが1960年代反骨の象徴であった「前衛」アーティストなのである。かつての批評精神を失い、小さなユートピア作りに回収されていく彼等を、藤田は「前衛のゾンビ」と呼ぶ。
以下、藤田とアーティストやキュレーター等との対話や、研究者による論文併せて8編が加わり、アートプロジェクトを通して現代アート全体の問題点や課題があぶり出されてくる。それぞれの論旨は明快だが、解答が示されているわけではなく、正反対の意見もある。地方のアートプロジェクトが範とした国際的なイベントの参加者とも、藤田は果敢に、真摯に論じ合い、折々立ち止まる。芸術にしか出来ないことは何なのか、芸術の芸術性を保証するものは何か、と。藤田直哉は1983年生まれ。こうした地域イベントに参加し、支えている人たちと同世代であることも興味深い。(続く)

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