ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

トニ・モリスン『ビラヴド』とその時代(5)

2022年03月20日 | 読書ノート
そういえばあの盛大なパーティーはスタンプ・ペイドの勇敢で無私の好意から始まったのだった。毒虫やイバラと格闘し採ってきたバケツ二杯分の木イチゴは、いくつものパイになり、あれよあれよという間に豪華なごちそうができあがり九〇人分の胃袋を満たした。まさに魔法のようで、しかしそれが町の人々の気持ちを離してしまうとは。饗宴に預かった人たちは逆に嫉妬と不信と嫌悪を抱くことになってしまったのだ。それは共同体が感知するや、すばやく連携し対処するはずの、外敵への防御を怠らせてしまう。鋭敏なはずのベビー・サッグスの嗅覚をも妨げてしまった。だからいきなりスウィートホームの「先生」がやって来るや、悲劇は起こった。彼らが目にしたのは血だらけの子供たちと、首をかききられた赤ん坊を抱え、乳飲み子の踵を掴んでいる女だった。とっさに乳飲み子をひったくって行ったのはスタンプ・ペイドだった。既に使い物にならない女と子供を前に奴隷主たちは立ち去ったのだった。
それにしても、このパーティー、あるいはサーカス、スケートと、楽しい記憶の後には必ずと言ってよいほど、不幸が呼び寄せられてくる。それらの楽しい出来事とは、本当にあったことなのだろうか。あんな大盤振る舞いなど出来るわけないではないか。セサたちのスケートには「三人がころぶのを見た者はいなかった」と繰り返し書かれているではないか。デンヴァーがセサから聞くのが大好きな、白人女エイミー・デンヴァーがセサを助けた話だって、セサの幻覚ではなかろうか。ほら話のようなエピソードこそ、「語り」の真骨頂かもしれない。楽しかった記憶は、膨らみ、人を饒舌にする。それはまた、記憶の揺らぎを増幅させもする。
一方、前述のように、ポールDの問いにセサは行きつ戻りつしながら過去を語り出す。それだけではない。デンヴァーの問いに答えるセサ。ポールDや、スタンプ・ペイドやデンヴァーの独白。さらにビラヴドの歌うような語り。「語られていなかったこと」とは「語ることが出来なかったこと」であり「忘れたいこと」でもある。その痛みと葛藤の中で語り出されたことが真実かどうかはわからない。ビラヴドのように、幻聴のような言葉もある。重層的に語られはしても、あくまでも個別の声として、多声的に響き合うだけだ。重なりの中に真実が見えるというわけでもないのだ。むしろ丹念に語りを引き出すことによって、駆り立てられるのは読者の想像力の方かもしれない。私たちは度々時間を逆行しては「思い出す」ことを強いられているのだ。それは単に、史実として伝えられている奴隷制度の過酷さや黒人たちへの差別といったものではないだろう。では何を思い出せばよいのか?何を想像すればよいのか?


最新の画像もっと見る

コメントを投稿