60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

口癖

2014年03月21日 10時00分19秒 | Weblog
 毎朝、(親)会社の朝礼に出席している。朝礼当番は社員の順番制なので、毎日違った人の話を聞くことになる。人それぞれに喋り方に癖があるのだが、その中でも話の合間に、「まあ」という言葉を入れる人が多いのに気づく。「まあ、こう言うことなのですが、・・・・、まあ、私はこのように思うのです。しかし、まあ・・・・」と言う風に、「まあ」が頻繁に出てくるのである。聞き流せば良いのだろうが、意識してまうと、この「まあ」が引っかかってしまい、話の内容が上の空になってしまう。しかし、普段その人たちとの会話ではこの「まあ」は出てこない。朝礼のように人前で喋る時に起こるのである。

 昔、仕事の中で台湾の人を、コンビニエンスの研修生として受け持ったことがある。彼は日本語の会話は充分にできた。あるとき彼と電話で話している時、彼から『「あっ」とは何ですか?』と聞かれたことがある。最初彼が何を言っているのか分からなかった。しかしよくよく聞いて見ると、私が言葉の始めに、「あっ、それは○○なのだが・・・・」という風に、話の始めに付けている「あっ」という言葉の意味が解からないというのである。「相手との会話の中で、間を入れるために使っている」と説明はしてみたものの、彼には意味不明だったろう。その後自分でも電話で喋っている言葉を意識してみた。すると確かに電話の最中、「あっ、○○と申します、・・・」、「あっ、ちょっと違いますね・・・」と言う風に、「あっ」を頻繁に使っていることに気づくのである。そして今度は電話口で「あっ」を使わないように意識すると、「一瞬の間合い」が足りない感じがして、喋り方が不自然なのである。

 こういう言葉を間投詞と言うのだろうか?そう思ってインターネットで調べてみた。間投詞=感動詞・感嘆詞。活用のない自立語で、主語や修飾語にならず、他の文節とは独立して用いられるもの。間投詞は一般に文のはじめにあって、感動・呼びかけ・応答などの意を表す。「まあ、きれいだ」の「まあ」、「もしもし、中村さんですか」の「もしもし」、「はい、そうです」の「はい」などの類、と書いてあった。ここで出てくる「まあ」や「もしもし」、「はい」は間投詞というのだろうが、話の合間合間に入れる「まあ」や、電話の会話の中で私が使っていた「あっ」も、間投詞の一つになるのだろうか?、しかしそれは個人特有の喋り方の「癖」のようなものだから、これはやはり「口癖」なのだろう。

 朝の通勤時、ラジオで時事問題の解説をしている番組を聞いている。曜日ごとに解説者が変わるのだが、その解説者の一人に、「どんどん、どんどん」という言葉を頻繁に使う人がいる。「どんどんどんどん進んでいる」、「どんどんどんどん悪くなっていく」など、30分程度の解説の中で、5、6回以上は使っているように思う。「どんどん」は副詞なのだが、これは完全な口癖なのであろう。やはりどんな言葉でも多用されると、人はそこに違和感を感じるものである。そして文章なら自分でも見返すこともできるが、口から出た言葉はその端々までは覚えてはいない。だからなかなか自分の口癖が自覚できないのである。

 これとは違うもう一つの口癖がある。それは会話の中で、その言葉を多用することでその人の性格まで分かってしまう口癖である。例えば、「要するに、○○なんだよ」の言い方を多用する人は自信家なのであろうし、「だから、○○なんだ」を多用 する人は自己主張が強い人なのであろう。「別に○○だから」は欲求不満の人、「まあ、そうかもしれないね」は自分に自信がない人、「忙しい忙しい」を多用する人は他人から評価がほしい人など、ネットを調べれば色々な口癖が書いてある。そんな中で私のもっとも嫌いな口癖は、「だから日本(人)はダメなんだよ」という人である。自分も日本人でありながら、自分を第三者の位置において批判なする人である。そんな人に限って、「だからサラリーマンは・・・・」とか「だから彼らは・・・・」という風に対象を複数にし、自分をそんな中から一歩抜け出た高みに置いて批判する。こういう人は卑怯な人であろう。

 生まれてから直ぐに使い始めた言葉、もう自分の中に組み込まれた言語ソフトのようなもので無意識で使っている。「言葉は人格をあらわす」、だから相手の言葉は、その人の生まれ育ちやその時の心理状態、そしてその人の性格まで読み取ることができる。しかし反対もある。話し方を変えれば人に与える印象を変えることができるのである。私の電話口での「あっ」は意識しているうちに、いつの間にかなくなった。少しの間、意識して喋ってみる。そうするとそれば言語ソフトに組み込まれて、いつの間にか変わるものである。「意識して続けてみること」、これは自分を磨いていく上で必要不可欠なことなのではないだろうか。