60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

1Q84

2009年07月03日 09時43分28秒 | 読書
村上春樹の長編小説「1Q84」がベストセラーになっているという。発売2週間足らずで100万部、
このまま行けば200万部を突破する勢いだそうだ。純文学としては前例のない売れゆきらしい。
何度か本屋をのぞいたが、いつも売り切れで買えなかったが、先週やっとこの本を買うことができた。

今回の作品を書きあげる動機が「オウム事件」のようだ。オウム裁判の傍聴に10年以上通い続ける。
この事件を考える上で、犯罪の被害者と加害者の両サイドの視点から現代の社会状況を洗い直し、
死刑囚になった元信者の心境を想像し続けた。そして現代社会における『倫理』とは何かという問題
を主題にし、村上春樹の幻想的な世界に置き換えて作品を書き上げたようである。

今回の作品の題名『1Q84』は実在の1984年とは微妙にズレた世界をあらわしている。そこでは
月が二つあったり、現実の事件とは多少異なる事件が起きたり、村上春樹の得意とする幻想的で
混とんとした世界を描いて読者を引き込んでいく。村上春樹の良く使う技法なのだが、「青豆」という
インストトラクターの女性と「天吾」という男性を、それぞれ主人公にして別々な物語を交互に書き、
次第にその二つの物語が近づいて行き、最終的に一つに繋がって行くという展開である。
彼の際立った文章力とミステリヤスなストーリー展開は、その先その先と、どんどんと引き込んでいく。
通勤と昼休みでの読書であるが、一冊500ページX2巻を約1週間で読み上げた。

読み終わって物語を振り返ってみる。面白かった反面、何となく「腑に落ちなさ」が残った感じもする。
物語は幻想的な内容の割には淡々と、しかも計算されたスピードで進行して行ったように思う。
読者は作者の幻想の世界を引きずり回されて、いつの間にか出口に着いていたという感じである。
読み進む中で、自分なりの判断や解釈を差しはさむめないまま、一方的に終わってしまっていた。
それは、この物語が我々には思いもよらない奇想天外な幻想の世界だったからであろう。
ストーリーはそれなりに起承転結もありクライマックスを迎え、そして余韻を残して終わる。
しかし読み終わった後に残る、ずしりとした重さというか、存在感が薄く不完全燃焼を感じてしまう。
これが村上春樹の持ち味なのかもしれない、これを今風で良しとするのか、物足らないと感じるかは
個人の趣向であろう。

今、村上春樹の作品が世界中で読まれ、ノーベル賞の可能性も言われている。村上春樹の何が
世界の人々に評価されるのであろうか?私にはそのあたりがもう一つ理解できない。
今回の「1Q84」も以前に読んだ村上春樹の小説も基本的には同質である。こんな世界もあるのか、
こんな小説もあるのか、という驚きも手伝って面白く感じた。巧みな文体、人を引きつけてやまない
ストーリーの展開、確かに新しいジャンルの小説とだと思うものの、果たしてノーベル賞に値するほど
人々に感銘を与えているとは思えないのである。
作者が言わんとしているテーマ、作品に共感できること、感じること、なにか抽象画を見ているようで、
印象派の絵に慣れた私には村上春樹の世界を感じることは、まだ少し無理なのであろうかとも思う。

私はどちらかといえば現実に則し、ある種のリアリティーを持った物の方が好きであり、男で、理系で、
しかも物事を論理だてて考えるタイプの人間である。だから抽象的なものは受け入れがたかった。
したがって村上春樹という作家のものは、私の読書リストには、つい最近まで全く入っていなかった。
4年前朝日カルチャーセンターの「実践小説教室」で講義を受けたとき、日本文学史の中で重要な
位置を占める作家と聞き、あわてて読んだのが彼のデビュー作でもある「ノールウエイの森」である。
その後「羊をめぐる冒険」 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 」「ねじまき鳥クロニクル」
「1973年のピンボール」「アフターダーク」「海辺のカフカ」と読み進んでいった。
村上作品を通して感じるのは、無機的でクールな感じ、透明感を持って淡々と展開するストーリー、
そして読後に「喪失感」「孤独感」「虚無感」が残る作品が多いように思えた。
今はこういう作品も面白いと思うようにはなったが、しかし自分の中で肌合いが合う作品は少し
人間臭く、生活感を持ったストーリーやテーマの方が読みやすく、納得しやすいように思っている。

私は小さい時から読書が苦手であった。知識を得るための本を読むことはあっても、文学的なものは
全く受け付けず、中学時代からほとんど小説らしいものは読むことはなかった。
唯一読んだ本が高校の夏休みに読書感想文を書くために夏目漱石の「二百十日」という本である。
本屋に行って、文庫本で一番薄い本を選んだら、たまたまその本が夏目漱石であっただけである。
会社に勤めて、ある時近くにいた読書好きの女性が、三浦綾子の「塩狩峠」という本を貸してくれた。
借りた以上読まなければいけない。いやいやではあるが、高校以来初めて小説を読むことになった。
そして、その時に初めて小説を面白いと思った。寝る間も惜しんで読んだのは、私としては晴天の
霹靂でもあった。次に貸してくれたのが同じく三浦綾子の「積木の箱」、そして「氷点」と続いて行く。

本を面白いと思ってからは自分で本屋に行って買うようになり「読書」が自分のものになっていった。
その後、川端康成、夏目漱石、島崎藤村など名作と呼ばれるものから始まり、松本清張、水上勉、
森村誠一、西村京太郎、陳舜臣、清水一行、天藤真などの推理小説へ移行していく。
読むうちに面白いだけでは飽き足らず、読後に何か残るような良い作品を読みたいと思うようになる。
それから毎年の芥川賞や直木賞の受賞作など賞をとった作品を中心に読むようになって行った。
そしてその作品の中から自分の感性に合う作家の他の作品に範囲を広げて読むようになった。
そんな中で最も好きで読んだのが宮本輝である。彼の作品(50作)はほとんど読んだであろう。

本を読むことは、著者に寄り添いながら自分の思考と重ね合わせる作業ができることにあるという。
その活動を通して新しい知識や価値観を創り出していくことができる。それが最大の効用であろう。
思えば、私の知識や価値観の形成には、読書の積み重ねが大きな比重を占めていると思う。
そして私の読書習慣も三浦綾子の「塩狩峠」という本を貸してくれた一人の女性から始まっている。

そう考えれば、人生とは「縁」なものである。その「縁」をつかむか否かで人生の展開も変わって行く。
「1Q84」は主人公の「青豆」という女性と「天吾」という男性が小学校5年でのわずかな「縁」が
物語の大きな骨組みになっている。その「縁」を引っ込み思案のため、躊躇し生かせなかった天吾、
そのことが、その後の彼の人生を少しずつ狂わしていく。勇気を持って一歩前に出る。そんなことが
この本の中のテーマの一つにもなっているように思った。
「1Q84」を読み終わって昨日本屋を覗いたら、宮本輝の『骸骨ビルの庭』が平積みになっていた。
待ちに待った彼の新刊である。「今度は何を感じるだろうか、楽しみである」

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2009-07-07 01:15:43
私も村上春樹は、あまり積極的には読みません。(今は)

村上のデヴュー作は風の歌を聴けです。
ノルウェイは、大分人気が出てから出た本です。

私はまた違った見方をしています。現実が正しいとも思いませんし、彼の描く世界が異質だとも思いません。今の世界観をよく描いていると感じます。

ただ、きれいすぎますね。そこがあまり好きではないところです。

宮本輝 ぜひ読みたいです。読み終わったら貸して下さい。
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