60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

義母の死

2017年12月01日 08時42分17秒 | 日記
 11月24日PM4時、長年患っていた義母が亡くなった。大正9年10月生まれで97歳(享年98歳)であった。98歳ということは大往生ということになるのだろうが、ここに至るまでには本人の並々ならぬ苦闘もあったように思う。35年前義父が食道がんで亡くなってからは末の娘と2人暮らし。14年前義母は脳出血で倒れる。発見が早く一命は取りとめたが、右半身不随となった。80歳を過ぎた義母にはリハビリでの復活は難しく、車椅子の生活を余儀なくされる。娘も働いていたので自宅看護は難しく、施設を転々とした後、実家の近くにある特別養護施設へ落ち着いた。結局特養の施設が終の棲家となったことになる。
 
 義母には我が家の3人の子が生まれたときには大変なお世話になった。そんなこともあって子ども達は皆おばあちゃん子である。お正月やお盆など実家に連れて帰ることも多く、私自身も夫を亡くした義母とはよく話をし、しばしば相談を受けることもあった。義母は四国愛媛県の生まれで4人兄弟の一番上である。だからなのかしっかり者で面倒見が良く、勤勉で忍耐強いという、昔の女性の典型的な人だったように思う。我々家族が滞在しているときは、四六時中動いていて甲斐甲斐しく面倒をみ、孫達には優しく接してくれていた。しかし自分の子供たちには厳しく、一旦こうと決めたことは頑として譲らず親子喧嘩も絶えなかった。昔ながらの家意識が強く、総領はこうあるべき、結婚はこうあるべき、女はこうあるべき、ふだんはつつましく、いざというときにお金を使う。そんな家訓のようなものを大事にする人でもあった。
 
 私の父母と義父母、4人はいづれも大正の生まれである。昭和の始めに青春を過ごし、太平洋戦争の前後に結婚し、終戦後の物の無い時代に子育てをした世代である。いってみれば環境そのものがが波乱万丈の時代であった。節約を旨とし、食料不足でも何とか子ども達に食べさせ、子ども達の教育には熱心で、色んなものが不足でも不満を言わず、黙々と自分の役割を果たしていたように思う。時代の波に鍛えられられたからか、普段は優しく温和な人柄でも、いざとなれば悩むことなく決断し実行していく。4人とも1本筋が通った生き方、その凛とした姿は共通しているように思う。たぶん親の代から受け継がれてきた鉄則のようなものがあったのだろう。
 
 親4人が亡くなり、私の周りから大正が消えた。いよいよ我々昭和生まれの順番である。「終活」を辞書を引くと、人生の最期を迎えるにあたって執る様々な準備やそこに向けた人生の総括とある。親たちの生き方を見て何を参考にし、自分の終活をどうしていくのか、真剣に考える時期に来た。私の両親は自分達の遺影まで用意していた。さて私は、今の仕事をどう終わらせるか、家のローンは、いつまで生きるか分らない老後の生活設計は、病気になった場合は、身の回りの整理は、お墓をどうするか、・・・・・何事も計画通りには行かないし万全の準備も難しいしのだろうが、それでも一つ一つやっておくしかないのだろう。子ども達には極力迷惑を掛けたくないし、何より10年程度で確実にその時が来ることになるからである。
 
     

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