60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

上から目線

2012年07月20日 09時03分50秒 | 読書
  昨年の震災後、松本復興担当大臣が岩手県を訪れ、県知事に対して、「知恵を出したところは助けるが、知恵を出さないヤツは助けない」、「お客が来るときは、自分が席についてから呼べ。しっかりやれよ」、「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと、我々は何もしないぞ」、そんな発言をして「超上から目線」と激しい非難を浴び、程なく辞任に追い込まれた。昭和の時代なら「威張った大臣」と見過ごされたことも、平成の時代では通用しなくなっているのである。
 「上から目線」、ある意味世の中の変化で、クローズアップされてきた言葉であり事象の一つなのかも知れない。「上から目線」をインターネットで調べると、他人を見下すような雰囲気や言説のこと。「よく物事を知っている自分が、無知なお前(ら)に教えてやるんだ」と感じられる発言を不快に思う時に使われる事が多い、と書いてある。言う方は意識はしていないのであろうが、言われた方がそういう目線を感じれば、「偉そうに・・」「馬鹿にされている」、そういう感情が働き、相手に対して反発の感情が芽生えるものである。

 私の年齢になれば「上から目線」を感じることは少ないが、それでも友人との会話の中で、「外国での考え方はこうで、それに比べて日本人は・・・・」などと、いかにも自分が高み立ち、こちらを見下したように感じて反発することがある。周りの若い人達を見ていても、「あのオヤジ、上から目線でものを言う」、という言葉を頻繁に聞くし、実際に20、30代の若い層と、40、50、60代の層との間で、この「上から目線」の捉え方で断層が出来ているようにも思う。これが社内のコミュ二ケーションの断絶を生み、「不機嫌な職場」に繋がる一因のようにも思う。果たして自分は相手に「上から目線」を感じさせているのか、若い人と話すときは何を気をつけなければいけないのか、考えさせられるテーマである。

 先日、書店で『上から目線の構図』 ※冷泉彰彦著(講談社新書)というのを見つけて読んで見ることにした。以下そのあらましである。

 「目線」と言うのは映画や写真を撮影する際の専門用語であった。観客や視聴者に映るイメージとして、その人物が「何を見ているか」「何を感じているか」を表現するために人工的に視線をコントロールする場合を言うようである。そこには作り手の意図や感情が込められている場合が多い。また「目線」というのは人から発せられる視線が、対象に延びている様子を横から見ている感覚で、眼と対象が線で結ばれているというイメージで、その結ばれた視線の角度や方向、高さ、つまり上下関係が意識されている。

 「目線」と言う言葉から派生して、「お客の目線で」、「患者の目線で」、「子供の目線で」と言う風に、相手との関係を円滑にしようという意図で、相手の立場に立って物事を考えるときの使われるようになってくる。特にサービス業の現場などで顧客の苦情に対応するために、低姿勢となって相手の怒りを鎮めるなどの、「お客様目線」の標準化が進んで行き、今に至っている。そしてやがて顧客とのトラブルを回避するために、「とにかく目線を下げよう」という傾向が世のに蔓延してくるようになった。その結果「お客様第一」というスタンスが、「供給者が下で購買者が上」という上下関係を徹底することにもなってしまう。そして時として一部の消費者に「全能感」を植え付けてしまい、クレーマーやモンスター(ペアレント)をも生む下地になってきているように思う。

 「上から目線」という言葉が使われるようになったのは、2008年の福田総理大臣の記者会見のとき記者に向かって、「あなたとは違うんだ」と言った頃からだと言われている。「私は自分自身を客観的に見ることができる。あなたとは違うんです。そういうことも併せて考えていただきたい」という発言が、あっという間にネット世界で話題になった。福田首相は「常人とは自分は違う」と思っている。骨の髄から「上から目線」の人間だと言うことを証明している。こんな反応がネットを駆け巡った。このあたりから、「上から目線」という言葉が日常生活のコミュ二ケーションの中に入ってきたものと言われている。

 では「上から目線」という言葉が、一時の流行語に終わらず、一般に定着する背景はなんだろうかと考えてみる。

 もともと日本語というものは、人間関係の調和が前提となって出来ている。まず関係性を規定して、上下の敬語や遠近の丁寧語を使ってコミュニケーションのフレームを作り、親近感へ巻き込んでいく。そんな会話のスタイルを持っているのが日本語である。意見の相違や利害の相反が出てくると、湾曲表現や敬意の表現などを駆使して関係性を傷つけないよう、バランスをとろうとする会話の形式も定着している。こうした日本語の会話には相手への明確な反論や前提への懐疑というのはなかなか馴染まない。それをポンポンとやってしまうと、本人が思う以上に暴力的な権力行使として相手に受け取られてしまう。

 通常の日本語には「対等な会話」というのは無い。「年長者は上、若者は下」、「男性は上、女性は下」、「サービス業の顧客は上、提供者は下」、「無言の理解者は上、わからずに質問してくる人は下」といった暗黙の上下関係を、会話において要求してくる。したがって 「目線の上下」を気にしないで済む会話スタイルと言うのが、なかなか日本語にないのである。日本語には「話し手と聞き手」という分担があり、それ自体が上下関係になる。したがって「あいづち」というものは「相手の話し続ける権利を承認する」行為であり、上下関係を確認し継続するためには必要なことなのである。

 一方で英語は「上下の感覚」が薄いし、そもそもアメリカ社会は「人間は皆平等」ということが、相当程度まで信じられている社会である。戦後その影響もあって日本でも近年は、感性の違いや価値観の違いについて堂々と主張できるようになった。そして多様な価値観が、「出会う」あるいは「衝突する」場が増えたということである。ある意味日本の社会において、あらゆる人は平等(形式)になった。いったん「自己」を見出した日本人は昔からの秩序にしたがって「上下関係のどこか」に自分を規定されることに対して、ハッキリとした違和感を表明しはじめたのである。それが「上から目線」を嫌うことになるのだろう。我々は誰もが「見下されない権利」を持っている。同時に誰をも「見下してはいけない」、これが今の若い人たちの共通の概念でもある。

 世の中にあると信じられた共通の価値観が消滅したことによって、以前は使えていた「当たり障りの無い話題」が無効になってきてしまった。正確に言えば無効になったのは話題だけではない。話題に伴う「会話の形式」が無効になってしまったのである。お客様の苦情に対応するために低姿勢となって怒りを鎮めるなどのテンプレート(雛形)が用意されていれば、会話としてはうまくいく。昔はそんなふうなテンプレートが随所にあり、それに乗っかっていれば、自然とそこには「関係の空気」が生まれたので、その空気の中でスムーズに会話が進められたのである。現代はそのテンプレートが失われたことで空気も生まれにくくなっている。日本語の会話には「空気」が必要である。空気が成立しない場ではコミュニケーションは行き詰ってしまう。そして「空気」が成立しないと、どうしても「目線」が気になるのである。昔から日本語での通常の会話の中にはこのようなテンプレートは意外なほどに標準化されていたのである。しかし社会が大きく変動する中で、昔から使われていたテンプレートが使えなくなってしまい、若い人達のコミュケーション能力が失われていく結果にもなっていくのである。

 ではどうしたら良いかである。

 個人的な人間関係でも、仕事や学校などの社会での関係でも、コミュニケーションがうまくいかない、相手に自分の考えや感覚を理解してもらえないと言うときは、「価値観の相違」を疑う必要がある。一つは価値観が違うと気づいたら、出来るだけ早く「価値観論争をやめる」こと。もう一とつは仮に価値観論争を伴うような話題でも、お互いが妥協できる「具体的な落しどころ」を常に探り、最終的に価値観は異なっても、当座の具体的な行動に関しては合意できるように努力することであろう。

 日本語の会話では「話し手と聞き手」や「質問者と回答者」といった役割が、言語上の上下関係になって会話が進むという特性からは逃げられない。だが、その中でもあくまでその会話の場にいる人々を、「対等」に扱う必要がある。そうした姿勢をキープできれば、「上から目線」現象は相当程度避けることができる。一つは心構えの問題としては「人と人とが対等である」ことを深く刻み込むこと、同時に具体的な会話の局面ではまず一歩下がってみることである。目上はもちろん、目下であっても相手を立ててみる。そして何とか自然な、そして相互に心地よい会話の空間を作ることが大切である。あらゆる摩擦はそうしてみて、初めて解決へと向かうであろう。と著者は書いている。


 我々の両親の時代、「暑くなりましたねぇ~」という言葉から、見知らぬ人にも平気で声をかけていた時代である。そこには本に書いてあるように日本語に付随するテンプレート(雛形)が存在していたように思う。しかし今はインターネットの時代である。そういうわずらわしいテンプレートを排除し、できるだけ簡略化して行く時代のように思う。その究極が「ツイッター」なのかもしれない。初対面同士がいきなり会話に飛び込んでも問題ないし、特にその会話の「場の空気」が解からなくても何とか入っていける。またお互いの年齢や地位などの「上下関係」もそれほど気にしないでよい。140文字の中では敬語や丁寧語を使う必要も無く、常に対等な立場でコミュ二ケーションが可能なのである。変われば変わったものである。
 さて、これからどんな世の中になっていくのか?、どちらにしても大きく様変わりしていくのは確かであろう。しかしどんな世の中になろうと、人が一緒に暮らすからには直接のコミュニケーションは避けては通れない。今の若者には縦横なコミュニケーション能力が次第になくなりつつあるように思う。だからこそ、その能力を有する人が、重要な役割を担う時代になって来るように思うのである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿