私の義母は大正10年生まれの現在95歳。14年前、脳出血で倒れ半身不随の状態になった。それ以来、病院と老人ホームのお世話になっている。今まで2度ほど誤嚥から危篤状態になった。しかし家族の強い要望で最善の医療を施され、命を永らえ今に至っている。しかし歳とともに体力は衰え意識ははっきりせず、今は胃瘻で直接胃に流動食を流され、先日は緊急の入院時に大たい骨を骨折し、血圧は異常に上がり38度台の熱が続いている。
もはや回復する見込みはない。人の最期とはこんなにも辛く苦しいものだろうか。歳を重ね、来年には後期高齢者になる身としては、「自分はこうはなりたくない」、そんな思いが日増しに強くなる。先日たまたま本屋で、長生きはつらい。〈大往生したければ医療とはかかわるな[看護遍]〉という本が目に留まって、読んでみることにした。
著者は1940年生まれの78歳、京都大学医学部を卒業し、医者を経て今は老人ホームの所長をされている。老人ホームで500例以上の自然死を見てきた経験から、医療や介護の邪魔が入りさえしなければ、「死」は穏やかなものであると知る。自ら市民グループ「自分の死を考える集い」を主催し、自然死を推奨している。本を読んでみてポイントだけを抜粋してみた。
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医療は何のために利用するのか。「人生を豊かに、人を幸せにするため、また人間らしく死ぬため」ですが、それには明確なゴールが必要です。それには二つあります。一つは治療の可能性です。もちろん、やってみないとわからない「不確実性」がありますから、可能性が高い場合ということです。このように、治療回復が高い場合は、当然医療を利用すべきでしょう。もう一つは、生活の質(いわゆるQOL)が改善する見込みが、高い確率で望める場合です。症状の軽減や苦痛の緩和も、医療の大事な役割ですから、これらが大きく望める場合も積極的に利用すべきでしょう。
ただものごとには、利益もあれば、必ず不利益もあります。ですから、利益と不利益を天秤にかけて、利益が不利益を大幅に上回るかどうか確かめましょう。また回復の可能性もなく、QOLの改善もなく、ただズルズルと死ぬのを先送りするだけの医療措置であれば利用すべきではありません。それは本人の幸せに繋がらないだけではなく、限りある貴重な医療資源のムダ使遣いであることを肝に銘じておきましょう。
食欲は本能です。生きるために食べるのは、あたりまえです。両腕に麻痺がないにもかかわらず、自力でものを食べない、あるいは食べられなくなれば、それは「お迎えが近づいた」と受け取ることを、年寄りの間の合意事項にしようではありませんか。なぜなら、自力で飲み食いができなくなれば「寿命」というものは、あらゆる生き物に共通の自然な最期の姿です。
しかし現在の日本では、「寿命」ということが理解できなくなっています。生きるために、飲んで食べるのは当たり前です。逆に死んでいくのに、飲み食いする必要はありません。つまり、もはや身体が要求しないのです。ですから、「腹も減らない」し、「のども渇かない」のです。ところが日本人は、「死に時」がきたから食べないということが理解できず、「食べないから死ぬ」と思い込んでいます。「食べないから死ぬ」のではなく「死ぬから食べない」のです。
そのような時、医療的には、鼻チューブや胃瘻をつくって強制的に流動物をいれたり、点滴注射の登場となるわけです。また介護の場面では、長時間かけて、口からムリヤリ食べ物や飲み物を押し込むという仕儀になるわけです。しかしこれは、本人の身体が、もういらないと言っているのに、強いる行為ですから、本人の負担と苦痛は計り知れません。・・・・「最後は病院で手を尽くして」というのは「できる限り苦しめる」ということと、ほとんど同義語なわけですから、
家族が、どんな姿でもいいから生きていてほしいという願いは、全く本人のことを考えていない家族のエゴです。・・ただ「どんな姿になっても生かしてほしいという本人の事前の意思」があれば別です。・・・・・自分たちは痛くも痒くもないわけですし、本人のためと思っているようで、実はまったく考えていない。ジコチュ-の鬼のような人達ですから。・・・・このようにわが国では、「がん」にかぎらず、家族全体で病気を考える傾向が強く、本人より前に出て、自分たちが後悔しないために「できる限りの治療を受けさせる」方向にムリヤリ引っ張ってしまいがちです。
高齢者の「ガンは老化」ですから、ここまで生きてきて賞味期限がきているので、「がん」になったと言っても何の不思議もないでしょう。「がん」は放置すれば、穏やかな最期がむかえられます。私はこれまで老人ホームで発見された「手遅れ」の100例に近い「がん」に巡り合い、今や確信に至っています。
健診で万一、少し異常があるなど言われたら、どうでしょう。途端に、酒は不味くなる、食欲は落ちる、夜はよく眠れないなどということでもなければ、何のための健診を受けたのか分らなくなってしまいます。それに、基準値とのズレが僅かであったとしても、異常といわれれば、そのまま放っておくには、かなりの勇気がいります。普通は、病院へ行って精密検査というコースに乗ることになります。検査の結果を踏まえて、治療して完治するものなら良いのですが、「3ヶ月後にもう一度どうなっているか調べましょう」と医療機関に繋がれてしまいます。安心を得るためのものが、裏目に出てしまいました。もう充分に生きたわけですし、自覚症状がないなら、むやみに健診など近づかない方が賢明というものです。
がん「放置」の効用は2つあると思います。一つは、人生の締め括りができる、けじめがきちんとつけられることです。・・・・もう一つは、周囲にお礼とお別れが言える、つまり「最後のエチケット」が果たせることです。・・・こう考えると、存外、「がん死」は人生の幕を下ろす手段としては悪くないなという気がするのですが、・・・ですから、人間ドックやがん検診をうけて、むやみにがんを探しまくらないことだと思います。がんが見つかってしまったら、放置するのは至難の業です。世の中、知らないほうがいい事も沢山ありますし、「手遅れの幸せ」ということもあります。
自然死(老衰死)は、飲み食いしなくなった「飢餓・脱水状態」では、脳内に麻薬様の化学物質である、βーエンドルフィンが分泌されていい気持ちになり、また、「脱水」により意識レベルが低下して、ウトウトして傾眠がちになります。またこの頃になると、息遣いがおかしくなります。例えば何十秒か息が止ったり、息の仕方が大きくなったり、小さくなったり、喘ぐような息の仕方になります。
呼吸の仕方が悪くなると、酸素が充分に体内に入らなくなるので「酸欠状態」になり、また炭酸ガスがきちんと排出されないため、炭酸ガスが溜まることになります。「酸欠状態」でも、βーエンドルフィンが分泌されますし、「炭酸ガス」には麻酔作用があります。つまり、死の際の「飢餓」や「脱水」、「酸欠」や「炭酸ガスの貯留」すべてが、穏やかに死ねる手助けをしてくれるというわけです。
今、医療や介護の現場では、患者や利用者がいのちの最終局面を迎えたとき、家族にどうするかの決断をせまります。しかし大多数の日本人は、「死」を縁起でもないと嫌っていますから、前もって、どうするかを家族と話し合っていることは、まずありません。その時点で本人に聞こうにも、意識レベルが低下していたり、ぼけて正常な判断力が失せていたりで、尋ねようがないのが実情です。
・・・・そこで、結局、家族がどうしてやりたいかという、自分達の思いを表明することになってしまいます。そこには本当の本人の希望なのかどうかということについては、全く考慮されていません。こういう状況下での決断ですから、亡くなったあともずっと、本当にあれでよかったかという思いが、つきまとうことになります。これを回避するためには、本人がまともな状態の時に、最終局面で、「どんな医療措置を受けたいか、あるいは受けたくないか」とか、「どこで、誰に、どんな介護を望むか」の意思表示をし、それについて、よく家族と話し合っておく必要があります。このことは、医療の「虐待」や介護の「拷問」からわが身を守るだけでなく、家族の無用な悩みから救うことにもなるのです。
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男の健康寿命を経過し、何時何が起こっても不思議はない。そんな年代に入って、がんを含む重篤な病気になった場合、最期をどう迎えたいか。これはまず自分自身が決めておかなければいけない問題だろう。今までの読書や周囲の人々の死を観て来て、今は下記のように思っている。
① 安易に医者や薬に頼らず、常に自分自身で健康をモニターすることを心掛ける。
② 今までの経験から、明らかに異常だと感じたら病院で検査し、原因を究明する。
③ 病気が判っても、治療は医者の意見だけに委ねず、どうするかは自分で決める。
④ がん検診はしない。(すでに4年間受けていない)
⑤ 自覚症状から、がんと分っても、基本的にはがん治療はしない。
ただし、腸閉塞など明らかに手術をすれば当面はしのげる場合は治療を受ける。
しかしは抗がん剤は絶対に使用しない。
⑥ 自分が判断できる場合はすべて自分で判断する。
⑦ 自己判断できなくなった場合は延命の為の治療はしないよう家族に言っておく。
⑧ 胃瘻や点滴、酸素吸入などの延命介護もしないよう家族に言っておく。
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