浪漫飛行への誘(いざな)い

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「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」

2021年12月10日 08時10分09秒 | 人生

 

9日、久し振りに「歎異抄を学ぶ講座」の中の「アニメ親鸞聖人物語」の第1話をzoomで聴講した。今までに何回か見ているアニメであるが、その都度心にジーンと来るものがある。親鸞聖人(松若丸)は、4才で父親、8才で母親を亡くしているが、9才の時に死んだ後はどこに行くのかという疑問を解決すべく仏門に入る決心をして、比叡山天台宗の青蓮院を訪れた際に詠んだ歌が、

「明日ありと思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」である。

聖人が青蓮院を訪れた際、夜遅かった為に慈鎮和尚(慈円)から「夜も遅く疲れているだろうから得度式は明日にしてはどうか」と促されたが、親鸞聖人は命について「明日がある」と思い込むことを、いつなんどき散ってしまうかもわからない桜に譬え、夜に嵐が吹けばどんなに満開の桜でも散ってしまうと歌にして、だから「明日」ではなく、命ある「今」仏教のお話を聞きたいと、その夜に得度を受けさせて頂いたという。

親鸞聖人が幼少の時、京都では戦乱や天災における飢饉、火災、地震が相次ぎ、人の死を目のあたりにしていたので、聖人は美しい桜の姿を見て、命の無常を観じていたのではないかという。この歌の意味は、「今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜半に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない」ということだが、親鸞聖人は、自分の命を桜の花に喩え、「明日自分の命があるかどうか分からない、だからこそ今を精一杯大事に生きていきたい」との思いが込められているという。しかし、9才という年令を考えるとその才能には驚かされるばかりである。

15世紀の浄土真宗の僧である蓮如上人の「御文章」の中の有名な「白骨の章」も同じ趣旨である。朝に紅顔ありて夕べに白骨となる」とう諺は、もともと和漢朗詠集からきているようであるが、「人間は、いつどこでどんなことが起こるか予見することはできない。朝、健康であった若者が、夕べには死んで白骨になるようなこともあるのだ。」という意味で、蓮如上人が「御文章」で引用したことで、有名になったようである。浄土真宗の葬儀や法要では、必ずっていうほどこの「白骨の章」のお経が読まれるという。まさに世の無常を説いたもので、胸を打つがもう少し奥深く仏教のことを勉強したいと思う。

 

「アニメ親鸞聖人物語」の第1話: https://youtu.be/KjqO77oKzp0

 


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