龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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アンドロイド演劇「さようなら」(平田オリザ作・演出)をふたば未来学園高校で観てきた。

2016年06月09日 12時21分37秒 | 大震災の中で
アンドロイド演劇「さようなら」を観てきた。
昨日、ふたば未来学園高等学校の体育館で演劇をやるというので観に行った。
演目は

アンドロイド演劇「さようなら」
平田オリザさんが昨年度からふたば未来学園高等学校で演劇の授業を担当しており、その一環として生徒に最新のジェミノイド(アンドロイド)が登場する演劇を授業で一年生全員に見せたのだという(2年生については放課後希望者を対象に)。

それを夕方、地元の人に一般公開した(3回目の)公演を観にいったのだが、これがとても面白かった。

アンドロイドが人間の振りをする演劇、ではない。アンドロイドは「アンドロイドの役」として劇中に登場する。
それは小道具(もしくは大道具、あるいは舞台セット)じゃないか、と思う人もいるかもしれないが、そうではない。これを舞台装置ということはできない。なぜなら、私たちは観ているうちに、そこはかとなくこのアンドロイドに感情移入をしていくことになるからだ。

もちろん、照明がばっちり当たっている、芝居の後の「カーテンコール」のアンドロイドは、ちょっとよくできたマネキン程度の「リアリティ」(人間らしさ)しか持たない。まあ人間に似せた人形である。
だが、演出家の平田オリザがそのアンドロイドに演出を施し、作品という物語の時間の中に配置してその演技をする、それを私たちが人間の俳優の演技と同時に観劇していくと、アンドロイドにも心が動く瞬間があるのだ。

いや、そんなことはない、という人もいるだろう。
だが、平田オリザがいみじくも言うように、演出をつけていって人間の心を動かすのに、役者もアンドロイドもCGも「原理的には」違いがないのだ。それを実感し、あるいは実感しないまでも(実感しない人はむしろアンドロイドに人間を発見しようとしすぎる人なのかもしれない、とすら思えてくる)、そのことについてさまざまに考えさせられる芝居だった。

話の筋は簡単だ。病気であまり動けない女性のために、アンドロイドが購入される。彼女(アンドロイド)は女性の求めに応じて詩を暗唱したり、話し相手になったりする。しかしアンドロイドだからできることとできないこと、分かることと分からないことがある。「すみません」というアンドロイドに「いいのよ、あやまらなくて」という女性は、自分の死を自覚しつつ、アンドロイドに「今の自分」にふさわしい詩を読んでほしい、と頼むのだ。
その詩はランボーだったり谷川俊太郎だったり、石川啄木だったりする。そのアンドロイドのチョイスは女性の気持ちに寄り添ったものなのだろうか、そうではないのだろうか。それはアンドロイドの意識の反映なのだろうか、そうではないのだろうか、そんなこともちょっと考えさせられる。

それがこのお芝居の前半。後半は双葉郡で上演されるということで新たに台本を付け加えた部分になる。先の女性が亡くなり、アンドロイドだけが残される。運送会社の男が部屋に入ってくるが、アンドロイドはずっと詩を暗唱しつづけている。男が入っていっても反応せず、止めようとしない。
会社と連絡を取りながら男は、アンドロイドにリセットをかける。すると会話が成立するようになる。
「なぜずっと詩を暗唱しつづけていたの?」と男がアンドロイドの「故障」を想定しながら尋ねると、アンドロイドは「長い間一人でいたからかもしれません」と答える。
その後アンドロイドは、人が原発事故のために入ることのできない双葉郡の海岸に据え付けられ、誰もいない浜辺で鎮魂のために詩を朗読しつづける為に運ばれていく……

そんな30分足らずの芝居である。

私たちの視線はその間アンドロイドに釘付けになっていた(と思う)。少なくても私はそうだった。

アンドロイドは思いの外人間に似てもいるが、人間そのものの動きができているわけでもない。アンドロイドそのもの、である。
だが、その人間とアンドロイドのかみ合うようなかみ合わないような会話のやりとり、ぎこちない、しかし或る種の表情を思わせる動き、そういうものが幾重にか重なって、そこはかとない感情移入が起こっていったように感じる。

終演後の平田オリザさんのトークは、かなり先端的なお話だった。


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ハリウッドや商業演劇では、今後アンドロイドの利用が急激に進むかもしれない。
なぜなら、CGの普及によって大量のスタントマンが失業したように、アンドロイドは危険に強い。もし映画制作の保険料と比べてペイするようになれば、アンドロイドが舞台やスクリーンで急激に採用されるだろう。
また、富裕層にとって、ジェミロイドの値段は十分に支払えるものだとすれば、亡くなられた家族のアンドロイドがほしいという需要は必ずある、数年以内には、アンドロイドを単なるモノとして扱うのではない法律の制定が必要になるだろう。少なくてもペットよりは大事な存在になっていくにちがいない。

ロボット工学の研究者の多くは、無駄のない動きを目指してしまう。しかし産業用ロボットのような迅速に正確な無駄のない動きは不自然なのであり、人間はかならず無駄な動きをする。それは統計的な平均化もできないし、かといって単なるランダムだと挙動不審になる。だからロボット工学だけでは自然な動きは作れない。2500年の歴史を持つ演劇の芸術的蓄積が必要だ(いまはまだ)。ではロボットに無駄な動きをさせるのはなぜか?ほぼ人間の動きは機械に比べてネガティブなところが特徴だ。
だから、そこを考えていくと芸術とか、人間的な振る舞いを求めるシーンがそれを求めるということになる(上記のような映画とか、亡くなった方を忍ぶとか)。

あるいは、案内板を見て場所を探している人に声をかけるときに、どうやったら自然に驚かれずに声をかけるロボットができるか(これはすでに実用化に向けて進んでいる)などといったことも考えられる……。

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そんなお話を伺うことができた。アンドロイドの「人間的」な研究においては、日本が「今」世界で独走しているのだそうだ。さすが「アニメ」の国だと思うが、だから『鉄腕アトム』でも描かれていたようなロボット法(単なる器物破損の器物、所有物ではない価値を認める法律)は日本で作らなければならない、という指摘も面白かった。

平田オリザ氏はさりげなく、きわめてさりげなくだが
「今双葉郡では、亡くなった人の鎮魂も満足にできないといった状況が続いている。その価値は今のところ全く補償されていない。避難の補償はある。壊れた、あるいは使えなくなったモノや土地、できなくなった事業の補償はある。しかし、魂についてはなにもない。これからその魂の価値について声を上げていかなければならない」
というようなことをいい、そのこととこのアンドロイド演劇という芸術における意義とは繋がっていると指摘していた。

いろいろ頭が爆発しそうなおもしろさだった。こういう授業を「ふつうに」受けられるふたば未来学園高等学校の生徒はすごいチョイスをしているなあ、と思うと同時に、60歳近い演劇好きの国語教師が「すごいすごい」と思うように彼らはスゴいとは思わないのかもしれないとも予想してみる。

それが当たり前のことが、スゴい。そしてそれは大人達が彼ら双葉郡で学ぶ高校生の将来に向けての確実な「投資」でもあり「支援」でもある。今、このすごさを分かる必要はない。いずれどこかで響いてくるだろう。

いや、もちろんすてきなことをやっているな、とは分かるだろう。感覚的にはすでにすべてを知っている。直感的には。

だが、その価値の全貌は、高校生にはまだ直観はできまい。
学ぶことによって全体像が見えたとき、彼らはそれを改めて「直観」するだろう。

60歳を前にした初老の引退直前の高校教師の直観は、おそらく高校生には通じない。それでいいのだ、とも思いつつ、じいさんがすげぇすげぇと言っていた、ということぐらいは伝えて死にたいものだ、とも思う昨日の夜だった。

これから世界中で公演をしていくとのこと。機会があったらぜひ一度観劇を。

ちなみにマツコロイドも漱石ロイドも同型機とのこと。

ただし、見せ物として性能や似ていることを見るのではなく、物語の中でアンドロイドの演技を見てほしい、というのが平田オリザさんのスタンスのようだが。

つまり、人は物語の中でこそ人間になる、そういう意味ではアンドロイドも俳優も、その物語において「人間的」たりえるのだ、という平田オリザらしい、そしてそれは現代にふさわしい視点がある、ということだろう。

それを感じたことが、昨晩最大の収穫だった。




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