龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

スピノザの講座メモに索引をつけた。それだけで

2013年05月01日 21時55分18秒 | 大震災の中で
ほったらかしておいたスピノザ入門講座のメモ(P130ぐらい)に、ブックマークのある目次をつけてPDF化してみた。

それだけで、閲覧性が抜群に上がり、自分でもう一度頭の中が整理しやすくなってきた。
思考って、そういうことが大事なんだ、とこの年になってようやく分かってきた。

もし、それがもう少し早く分かってかつ実践ができていたら、人生違った展開になっていただろうにねえ。

でも、ここから自分なりのスピノザ早わかり覚え書きは作れそうな気もしてくる。

「内在性の哲学」とはいっても、単にス「ここにある」世界が全てだ、ということを法則として絶対視するスタティックな理解ではなく、國分先生のスピノザはむしろ、ドゥルーズの理解を踏まえた「実践の哲学」という読みである。

「直観」の方にウェイトをかけた読みですね。

神の存在証明も、そこに至るまでの短いかもしれないけれどいきなりトップギアで神まで突っ走る、そのパフォーマンスがどうしても必要なのであって、「私は神から始める」といっていながら、最初から神に行くわけじゃない。

カタパルトは一応用意されている。

第五部の「直観」モードに入ったときの「速度」に國分先生もドゥルーズも注目していて、だからこそ、「幾何学的様式」によるスタティックな神=自然=世界という印象とは全く異なるスピノザ哲学の相貌を、そこに見ることになるわけだ。

なあんてことも、ちょっと忘れていたけれど、整理すると思い出す。
本当におもしろい「スピノザ入門」の一年間でした。
一つの山を登ると、別の高い峰が見えてきて、今上っている山だけが高いわけじゃないってことも分かってくる。
哲学って、とくにそういうことがありそうです。
おもしろい。

でも、いつのまに文学から哲学にスライドしたんだろう?
あたかも通帳のように、文学もまた、どこかのズボンのポケットに入ったままのような気も(大震災以後)しないでもない。

でも今は、哲学と向き合う時期なのだというおもいがつよい。
不思議なものです。






人をネタにしていたら……

2013年05月01日 21時41分23秒 | 身体
人の「所業」をネタにしていたら、案の定報いが来ました。

今日の午後、自分の部署の通帳(印鑑は管理職決済)でお金を下ろし、支払いを済ませたあと時間があったので、別の部屋で油を売りながら、机の上がてんこ盛りになっている同僚をひとしきりからかい、さて自分の席に戻ってみると、ない。

通帳がない。通帳がない!ないっっ!

まあ、印鑑は管理職決済だから口座のお金自体は大丈夫です。でも、この前同僚が通帳紛失をしたところ、再発行に1000円以上かかるとかいってがっかりしていたのを思い出し、「うひょっ」ってなりました。

金庫から出して、お金を渡して、油を売って、自分の郵便トレイを覗いて、各部署に届いた資料を配って……。
分からない。

ああ……orz

となって、椅子にへたりこんだら、おしりのポケットになにやら存在感。

ありました。
ズボンのポケットに私のおしりの形通りにひんまがって(笑)。

まあとにかく、関心=シニフィアンが見事なほど次々に転移していくんですよねえ。