龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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ハイデッガーの「土着性」「放下」「密旨に向かっての開け」

2013年01月03日 23時44分27秒 | 大震災の中で
さきほどは間違えてこちらに本文をアップしちゃいました。

基本、本を読んでの感想とか、講座内容のメモとかは

メディア日記「龍の尾亭」

に書きためています。
ブログ子自身の匙加減なんですが、こちらに書き流すより、書名とか講座名があって、それについて考えたことを記録しておいたほうが、後で参照するのに便利なんですよねえ。

というわけで、

ハイデッガー『放下』について(5)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980408

ハイデッガー『放下』について(6)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980409

に続きのメモを書きましたので、お暇でしたらそちらを参照くださいませ。

いよいよ後半、肝の部分に入って来ました。
人間はどうやっても主役にはなれない。
圧倒的な技術の「攻撃」の前に、革命的な激変が起こっている。
人間は、「計算する思惟」だけでは本当に無力になる。
今こそ「省察する思惟」が必要だ……

っていうような、技術が人間を疎外する状況に対し「熟思」「省察」を以て立ち向かえ的な図式は、まあまあ分かりやすい。
ここまではね。

ところが、その時に出てくるのが「土着性」という概念なのです。
これが分かりにくい。
でも、私は社会的=技術的営為を「人為」と捉えていたけれど、ハイデッガーは技術が人間を「徴発」する、という言い方をするんですよね。

私にはよく分からないけれど、この「土着性」という言葉には、まるでコンピュータ管理の世界が、エネルギー源として人間を培養するマトリックス的世界観に近いような印象すら受けます。
つまり、技術的な進行を前提とし、その外部を想定せずに「土着性」の基盤を、その技術的に徴発され、自然の中に隠されたエネルギーをもりもりとそこに開いていく技術のありようを前にして、そのありようの中で基盤を見いだして行くってことでしょう?

違うのかなあ。
ハイデッガー、このあたりから薄気味悪く(ということは格段に面白く)なってきます。
まあ、「土着性」は、まだ「生の可能性条件を準備する環境=生態」みたいな読み替えをする余地はある。
でも、その次の「放下」と「密旨に向かっての開け」になると、ほとんと「禅」かいっ!?って感じになっていきます。


ダライ・ラマさんに尋ねたら、「安全か危険かは科学者に聞け」って答えでしたから、それよりはハイデッガーさんの方がぐっとくることは確か。

まるで福島で講演しているみたいだものねえ。
この『放下』って講演記録、ほんとうに30ページ程度で短くて、私にとっては切実なことを巡って書かれているという印象です。

そのあたり、もう少し粘ってみますね。


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