龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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大震災以後を生きる(19)

2011年07月23日 13時14分32秒 | 大震災の中で
1、
垂直統合型の社会システムとしての東電や政府の対応が、結果責任を全て背負います、的なスタンスが実は「安全神話」へのしがみつきしかもたらさなかった(結果に責任を背負う以上、「安全だ」としかいえない)。そのため、リスク管理が実質上ほとんど機能しない状態のままことここに至った、という実感がある。

2、しかし、ここで東電や政府だけを叩いてみてもらちはあかない。
そこにマネージメントも技術的内容も、全部おんぶにだっこで「社会システムが上手く動けば無意識でいられる依存」で我々が生きてきた以上、責任追及だけをしていても、結局状況に対応できない(事件が起こらないことを前提に、可能な範囲で対策する)システムなのだから。

3、私たちは、そのシステムに依存していたことを素直に認めた上で、リスク管理の話を始めよう。そして、実践していかねばならない。
ただし、これは、問題を座視し瞳をそらしていたから「一億層懺悔」すべきだ、っていうおなじみ「無責任ムラ体制」の繰り返し、とは違う形で進める必要がある。ここ、大事。

4、垂直統合型のシステムに依存して、中央から「透明性の高い」、ということは現実よりも「官僚作文」に近い指示や判断、基準提示が出てくるのを待っていてはダメ(萱野×大澤対談での指摘。宮台×飯田の対論でも指摘)。

5、次に、ほーらだから言ったじゃない、って話は筋金入りの「反原発派」に任せておく。なぜみんな「うすうす分かっていた」のに辞めなかったのか、を考えない「反対」はやっぱりまずい。

6、実質上中央の植民地状態で選択肢を持たなかった原発立地自治体の現状を無視して「うまい汁すったじゃん」みたいな視点もとらない。

7、ただし、なぜ事故が起こっても原発依存が続くのか、の分析(開沼博「フクシマ論」など)は必要。たんなる町長の利権とかいうレベルではないと思う。

8、もうだからスローライフなのだ、というライフスタイル論にも行かない。それは個々人の自由。処世術は思想であって、公共性とはベクトルが異なる。もちろん、「現在の経済的豊かさを死守するためには原発を焚き続けるべきだ」という立場(与謝野大臣)より、ずっと共感はするけれど。

9,つまり、個人的な立場や、社会的な立場を主張する話は、耳を傾けるけれど、その路線には行かないほうがいいというスタンスで考え、行動するということです。

10,このとき、宮台×飯田の指摘する、日本における「むら」への過剰適応を一つの手がかりにする。

11、もう一つは、國分×萱野の指摘する「エソロジー」的側面からのスピノザ理解を踏まえる。

12,たどりつきたいのは、公共性における哲学の役割、ということ。

13,そのとき、共同体的規範をどこまで前提に「しない」のか、という勝負どころが出てきそうな気がする(千葉雅也のドゥルーズ論より)。徹底的に「てんで」でありながら「啓蒙」はありえるのか?という課題。

14、それは反転させるとデカルトの「強い懐疑による説得」とは対蹠的な、スピノザの「弱い説得」(國分功一郎)の視点にもつながる。

15、社会システムの問題としてではなく、ライフスタイルの問題としてでもなく、哲学の存在論を軸として考えていくということ。

16、考えたいのは社会的包摂性、つまりは「公共性」の射程距離みたいなところなんだけれど、それを個人と社会からだけ考えていてはいかんのじゃないか。
たぶんこの四ヶ月考えてみてたどり着いた場所がここ。

17、「公共哲学」の駒場(東大)シンポも見たけれど、間口は広いし、それぞれは専門性が高いのだろうが、単焦点の並立の段階。多くの異なった焦点が、その出所の差異を踏まえつつ共鳴する段階とはほどとおい印象。

18、日本国内で「ムラ」を離れるには、大学とか企業とか地域とかいった擬似制度化した場所から重心をずらさないとダメなんじゃないかな、やっぱ。

19、しかし、単に「ムラ」からはずれて、その「ムラ」と「ムラ」の「隙間」で正義をふりかざしても、ホリゾントに向かって演奏するようなもの。宇宙人とか外国人とか変な人として終わりかねない。
これじゃあ意味がない。
求めるのはあくまでも公共性であり、社会的包摂性なんだから。


20、しかし、3/11以後、瞬間的には個人も国家も既存社会システムからも離れて、お互いが利他的に行動して共鳴しあい、共同性がつかの間成立する、その感触を味わった(「災害ユートピア」的ですね)以上、「ムラ」とか「擬制的共同体」これは戻れない。

21、他方先祖帰り的「ムラ」の共同体は、たやすく利益誘導体に堕落してしまう。なぜ堕落するのか、といえば、やはり「国家」という暴力装置の機能を無視できない(萱野、柄谷)。
戦後の市民運動も、「正しさ」か「利益誘導」という「私益」(むしろ「正しさ」への固執は公共性を阻害する要因でさえある)に還元されてしまった。


22,公共性っていうのは個人と国家の間にある社会的システムの問題でもあると同時に、「間」の問題でもあって、それは実はやっぱり「哲学」でなければ拾えない場所なんじゃないか。

23、文学的想像力の問題は、ここまであまり触れてきていないけれど、哲学的想像力、演劇的想像力、声と身振りの身体的想像力という軸を踏まえてさらに考えていかねばらなない。
無論「共同性」をたやすく再生産するような「道具」としての文学は願い下げ。

24、「ムラ」は、いったん上手くいったものを「社会システム」と見なして、外部を持たない「
自然信仰」みたいなかたちで、その範囲内できわめて効率的な同調性を獲得していくから、小さい場所ではものすごく「有効」なんだよね。

25、そういう小さな「有効性」をもった社会システムや処世術や文学や哲学やら哲学やらは、ぜーんぶ願い下げ。

26、簡単じゃないから、上手くいかないから、リスク管理が必要なわけだし、利害なんて調整・誘導が簡単じゃないから、交渉や政治が必要なわけだし、市場原理だけでも、「正義」を振りかざすだけでもうまくいかないから、存在論に根ざした哲学的思考の粘り強さが必要なわけだし。

27、さてでは、福島県とくに浜通りと中通りの地場産業の壊滅をいかに防ぐのか。全然見当もつかないけれど、知らないうちに「誰かが」うまくやってくれるはず、だとはもう、絶対に思わないようにしようと考える。

28、これからはずっと忘却せず、原風景をスティグマとして抱えながら、考え続けていくことを自分で選択したのだと思う。

29、結局哲学的な場所に立つって、そういうことだったんだ、ということが「分かった」。

30、たぶん、福島県で棲息している人の多くは、そういう「エソロジー(棲家の掟=生態学)」を踏まえて考え、行動しはじめているんじゃないかな。

31、ただし、それは原風景に心情を固着させることとは違う。放射能汚染を「内面化」して生きるわけじゃあないもの。

32、現状の枠組みを「内面化」し「規範化」しちゃって、結果「ムラ」的共同体に接続する「能力」として利用するのはもうやめようよ、ということだ。

33、でも、油断するとそうなっちゃうからなあ。そこは用心しつつ。





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