龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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秋保亘『スピノザ 力の存在論と生の哲学』を読む。けっこう感動。

2022年03月04日 12時23分28秒 | メディア日記
著者の、博論ベースのスピノザ研究本てある。2019年の刊行。割と最近ですね。

まだ『知性改善論』についてが終わって、その読解を踏まえた『エチカ』論に入ったところまでしか読んでいないが、これはおもしろい。
 秋保亘氏の「私たち」には、一緒に誘われる感がある。つまり、「難解」と言われ、諸説入り乱れてスピノザが用いる用語の意味すらスタンダードの解釈が確立していないような状況において、スピノザの「私」がもっともよく現れている(モノの一つであると感じられる)テキスト『知性改善論』をまっとうに正面から読み抜いて、それを主著『エチカ』読解に向けての基盤として押さえようという書き方が、まず納得行くし、同時に『エチカ』のスタイル、幾何学的叙述様式について(私にとっては)初めて納得のいく説明を受けたような気がしている。

ここまでスピノザがどうして「定義」に拘るのか、彼ほど丁寧かつクリアに説を立ててくれている本はなかったように思う。
もちろんそれが(わたしにとって)納得がいくというのは、上野修、國分功一郎、木島泰三、河村厚、江川隆男各氏の本を読み進め、自分なりに書簡集を含む著作の間をうろうろして、訳が分からない10年を過ごしたから、なわけだが、それにしてもスピノザは、テキストに即した分かりやすい説明を誰もしてくれないのに、多くの人が魅了され、あるいは批判する対象となる、不思議さを持っている。

分からないだけならまだよい。
分からないのに、それでも個と普遍性を掴もうとする、、いや掴もうとするならこれでしょう?と誘われる感じがあって、その誘惑に乗ろうとすると、誰かの解釈の道筋になってしまう、という「わかりやすさ」になってしまう。

もちろん学者さんのそういう著作の説明はありがたい限りなのだが、秋保亘氏が本文中でも何度か触れるように一緒に読み進めていこう、という姿勢こそがスピノザに惹かれた理由なのだったなあ、と、ここまで読んできてようやく思うようになった。
自分の中の勉強の歩みとしては

ドゥルーズ→スピノザ→上野修→江川隆男→國分功一郎

が一つの段階だったとすると、

レヴィナス→朝倉友海→木島泰三→河村厚→秋保亘
が第二段階ということになろうか。

ようやく自分でテキストに向き合っても面白くなってきた。それでも、テキストの細かい部分になると、いろんな説があって、到底素人ではその妥当性を判断などできない(ラテン語を勉強したくなる所以なのだが、生きているうちには間に合うまい)。

それでも哲学者の主著なんぞというモノ直接触れる意義があるとしたなら、決して文学と同列に扱うつもりはないけれど、(古典)文学を読むことの意義と他人の空似程度には似ているような気もしてくる。

つまり、様々な異説、諸説の概ねの方向性というか重なりとズレがありそうな場所を意識しながら、自分で歩いてみたい道を歩いて見、迷ったら少し戻ってまたちょっと違う道を歩きなおしてみる……

そういうことがそれなりに(自分なりの水準で)出来るようになると、人文系の読書はメッチャ愉しくなる。
ゲームと違って攻略書もバグだらけということもあるし、それは実はバグではなく、それはもしかすると別の果実へ至る道かもしれず、攻略書の異同を含めて本編を改めて楽しむ糧になっていく、みたいな。

一つだけ感動点を書けば、徹底的に具体的個別的なモノと向き合おうとするからこそのスピノザの「定義」なのだ、あの幾何学的叙述なのだ、という本書の主張に痺れた。

水平因果と垂直因果というスピノザ読解の「技術的用語」を木島先生から教わったばかりだが、そして朝倉友海氏の『概念と個別性』においてはその垂直的な「概念」がいかにして個にたどり着くのかの思考の道筋をもらったが、秋保亘氏は真っ直ぐににテキストを読みながら読者を誘ってくれるという点で、感動させられた。

スピノザ読解のスタンダードになるかどうか、とかそういうことは分からない。
しかし、ここにこういう形でスピノザを読んでいる人がいる、ということだけで勇気が出てくる。

そんなことを思った。

木島泰三先生の近著二冊、河村厚氏のこれから出る一冊を含めて、こほ秋保亘の『スピノザ 生の存在論と生の哲学』、個人的にはオススメです。
もちろん入門書なら、國分功一郎さんの『はじめてのスピノザ』イチ押しですが。國分さんにも、『スピノザの方法』以降の、本格的な『エチカ』本を書いてほしいな。