岩田靖夫『神なき時代の神』を読む
を読んだ。
レヴィナスは、近年ケアのシーンで参照されることの多い哲学者、との印象がある。
他方、スピノザを批判しているということでも名前は出てきている。
もう一つは「他者論」というか絶対的な他者についての論(そこにユダヤ教の思想が加わる)、というイメージもある。
今回、ケアにおけるレヴィナスという理解の目標は一つありつつ、また遠回りしてスピノザのコナトゥスとレヴィナスの関係の論文(河村厚氏)を読んだところからの興味もあり、ちょっと手に取ってみた。
今回のレヴィナスの本丸は主著の一つ『全体性と無限』を小手川正二郎さんの『蘇るレヴィナス』をガイドに読んでみるということ。
そしてそこからさらに『個と普遍 レヴィナス哲学の新たな広がり』の第二部「レヴィナスとケアの倫理」を理解しようというもくろみもある。
その上で、自分はなぜスピノザが読みたいのか、って話になればいいのだけれど、どんどん遠回りしていく気も、する。
岩田靖夫氏のレヴィナス論は、二つの軸に拠っている。
一つはキルケゴールの神様のいる方の実存主義からの切り口。
もう一つはユダヤ教における苦難というか、シビアな神様の絶対他者との関係。
私にとってはとても興味深かった。
ただ、キルケゴールの話はいちおう実存主義の早わかり的には理解できるけれども、ユダヤ教の記述についてはへーそうなんだー、と読むしかないので、ちょっとこのエッセイ風の岩田氏の文章では、レヴィナスの勘所というより、岩田氏の読解というか積み重ねられた深い理解の様子、が見えてくるということになりそうだ。
勝手な理解の範囲で言えば、第二次世界大戦の全体主義によるユダヤ人虐殺を辛くも生き延びた著者にとって、他者、そして他者の顔と向き合うという主題は、存在とか自己とか認識とかいった西欧哲学の形而上学を切り崩して戦いながら思考する必然があったのだろう……と推測する。
その厳しさ、激しさは簡単には想像できない。
ただ、『全体性と無限』を読み始めてみると、佐藤義之氏『レヴィナスの倫理』や岩田氏のこの本は、私にはまだ早い、という感じもしてくる。レヴィナスはキレイに説明されるだけじゃ足りない、って熱い感じが本文の中に渦巻いている感じがする。自分でレヴィナスを読んでみるってことも必要だなあと。
ちなみに、先達から勧められている熊野純彦『レヴィナス』岩波現代文庫
は、一度通読したはずなのに、ほぼ覚えていない(苦笑)。
もう一度おさらいもしておこうかな。そしてこの作業が終わったら、「倫理」についてもなんか勉強しないといけないかなあ。
読む本は無限に湧いてきますね。
でも、とりあえず主著の一つに挑戦したいという思いと、当面の主目的の一つである『個と普遍 レヴィナス哲学の新たな広がり』を早く読みたいので、頑張って勉強してみようと思う。