龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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上野修「スピノザ『神学政治論』読了。

2014年06月27日 18時00分15秒 | 大震災の中で
頭の中がスッキリしました!同じ上野修氏の
『デカルト、ホッブズ、スピノザ』

の応用編というか、上野理論をスピノザのテキストに適用するとこう読める、という演習を受講してるみたいでした。

特に、最近マルチチュードとか話題になっている話についていけなくて困っていたのですが、疑問氷解。
ネグリとかの話がずっと手触りとしてぴんとこなくて、スピノザのテキストにはもっと「あられもない」ことが書かれてあるという印象を持っていたのですね。

それが今回増補で採られた

「ネグリのマルチチュード論とスピノザ」

ては、その辺りの事情をスッキリ書いてくれていて、とっても腑に落ちました。

大体上野理論におけるスピノザはこれで一段落かな。相変わらず「残余」の捉え方がカッコイイ(笑)。
つまりはスピノザが「謎」であり「転覆的」であるというレトリックの守備範囲での記述のリミットが完成、って印象です。

で、今度は若い世代のスピノザ読みのお話に期待したいです。

つまり、日常世界でスピノザを読むってことです。

(隠者のように、ってことじゃありません、念のため。スピノザ好きって、どこか非社会的な人、そして語り口が多い印象なんです。逆説や謎が満載な主体が多くてさ。自分も含めて。そうじゃなく、スピノザの話を、彼のテキストが醸し出す「あられもなさ」を日常に生きるこの「場所」で聴きたいのです。

自分でやればいいだろうって?その通りなんですが、難しいんですよ。それ自体がむちゃかなあ。
でもね、福島でモノを考える時、どこかでスピノザを参照しちゃうんですよね。何でだろうと思う。単に自分の思考の性向、スピノザが好みというだけ、なら、それはそれでそれでいい。でもそれだけのことなのだろうか。そこが見えないと、自分の中で腑に落ちないのです。スピノザ的リアリティは謎じゃなくてそこにある日常じゃないのか?そういう感じがあるんです。目から鱗が落ちたのか、目に鱗が出来たのか分からないって話にはなるんだけれど、そういうグルグルじゃなくて、ね。)

例えば國分功一郎さんの『エチカ』論を読みたいし、吉田量彦さんの『政治論』論を読みたくなりました。