龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

ある教師のことば(2)

2012年12月14日 23時43分16秒 | 大震災の中で
小さな水車が一人一人の中にあって
、それらが小さな差異を孕んでくるくるまわりだすの。
そしてそれが絡み合って響き合って、全体がが大きなうねりになって、その結果学校全体ががグルンってうごきだす。

大人はその違いを断崖みたいに大きくしてしまうから、なかなか変われない。

子供たちのようには「発動」しないんだな。私が20歳以下にしか興味がない理由はそこかもしれない。

子供たち同士にはその小さな差異がお互いに見えている。だから、最初の一歩を動かしてやりさえすれば彼ら同士でその差異をエンジンにしてお互いにどんどん動き出していける。
そういうときの生徒同士は教員より教えるのが上手い。

教師の仕事は、その差異を抱えて動き出す小さな水車の初動タイミングを見つけて、逆上がりか蹴上がりの補助のかけ声をかけてあげるだけでいい。あるいは跳び箱のロイター板、かな。

具体的なタイミングを計る直観力(直感力ではなく)が勝負。



柄谷行人の『哲学の起源』を読了。これメチャメチャ面白いです!今の時期、必読かと。

2012年12月14日 14時30分03秒 | 大震災の中で
前半はアーレントを参照しつつ、植民地イオニアにおいてこそ実現していたイソノミア(無支配)の分析をする。

外在的な人格神を否定して自然哲学を展開したイオニアの哲学者は、手仕事を重視し、ピュタゴラスやプラトンに繋がるような、数の神秘性とかイデアとかを私たちの感覚の外部に「神様的」に措定してしまう二重の制度(いわゆる二元論)を否定する。

イオニア的なイソノミアとギリシャのデモクラシーを対比させて、ギリシャの民主制は奴隷制や戦争などによる拡大を前提としなければ成立していなかった、と指摘。

ソフィストはイオニア的だったのではなく、イオニアのイソノミアの思想をギリシャが劣化版としてデモクラシーに受け継いでいったのに過ぎないとも。

後半は、ソクラテスを「最後のイオニア的」な者と位置付け、プラトンの描くソクラテスと、イオニア的なソクラテスの偏差を丁寧に拾っていく。

そのとき、積極的に参照されるのがカントの『啓蒙とは何か』である。

私的なものと公共的なるものの価値転倒がカントの『啓蒙とは何か』には明確に示されている。

私は、今福島の中で生きつつ、社会的な立場や政治的な立場に止まらない公共的なるモノを思考しようとするときに、このカントの『啓蒙とは何か』と、スピノザの神即自然を論じた倫理の書『エチカ』のふたつを参照せずには思考をつづけ得ないと感じている。

また、アーレントがアイヒマン裁判について論じた論を含む遺稿集『責任と判断』も、避けられない参照点だ。

柄谷行人の『哲学の起源』は、イオニアを舞台に、そワタシにとって不可欠の参照点を全て拾っていく。

シンクロニシテイですがな(笑)
ま、時代状況だね。

もちろん、そのイソノミア(無支配)のみを取り出してみれば、ほとんど遠い歴史の中で失われた痕跡のようなものであり、そのまま現実にベタで適用しようとしたら単なる与太話だろう。

ただ、スピノザを読んでいて感じるあの感覚、世界を貫いて認識自体がが立ち上がるような感覚とか、カントが『啓蒙とは何か』において、公共的なるものを社会的な営みから引き剥がすときのあの鳥肌が立つ感じとかは、柄谷の指摘するイオニア的自然哲学ときわめて近いところで魂だか精霊だかが響いているように感じられるのだ。

明日は

宮台×國分×堀内の「私の倫理学」という一発ものの講座も受講してきます。

そのあたりの消息も聞いてみたいですね。