龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

ある教師のことば

2012年12月09日 22時32分51秒 | 大震災の中で

「生徒には、不安とともに生きなさい、っていうんです」

とその教師は語る。

何かに安心したがる大人は多い。
でも、新たな人生を切り開いていくあなたたちは、それじゃいけない。
むしろ不安とともに生きることです……

これは生徒だけでなく、福島において生きる者すべてに関わることばだ、と感じた。

不安とともに生きる勇気が私たちには必要だ、とつくづく思うのだけれど、いかがですか?

安心したいのは分かる。
だれもが放射能ゼロを願いたい。
でもそれは無理。
「無主物」がそこらじゅうに溢れている。
そしてそこの瓦礫は福島県以外に持ち出せるはずもない。

いや、そう強迫的に福島福島いわずとも、実は私たちはどこにいても不安と共に「動的な生」を生きることが、かつては、ホンのちょっと前までは、当たり前ではなかっただろうか。

同一性ではなく差異を生きること。
それを当たり前っていうんじゃないか。

最近は「当たり前」が、何かどこかでいつのまにか都合よく決められた基準値にすぎないことが多いけれど。







山は高くまで登ると、初めて他の峰が見える。

2012年12月09日 13時05分03秒 | 大震災の中で

さまざまなことについて共通すると思うのだけれど、
一つの山をある程度登ると、他の山のいただきがむしろよく見えるようになる瞬間がある。

別の山に登るには一旦今登っている山を下りて登り直さなきゃならないから、当然体験できる登攀路には限りがある。

けれど、それでも高い山を登っていくと、山の麓にいるときには見えなかった遠い峰が、次々に視界に入ってくるような分岐点にたどり着くことがある。

それは(いつも自虐を交えて言うように)もしかするとむしろボケはじめ=脳みその腐り始めゆえの、つかの間神様から与えられた、

「世界把握力の一時的増大」

という面もあるかも知れない。

でも、最近は本当に様々な所で考えを巡らせている人たちの思考が、自分の考え続けていることと響き合ってくるのを実感する。

たとえば、柄谷行人のこの『哲学の起源』の考え方は、スピノザのいう「神=自然」と近いところにあるように思えてならない。

私自身がちまちまと、福島において「倫理」について考えていることも、なぜかそこと響きあってくるように感じられてしまう。

関係妄想か?
あるいは「哲学業界」の「物語」受容」しているだけか?

いずれにしても、何かの「兆候」を読み取るだけでは足りない、ということなら、50歳を過ぎると自然に分かってくる。

単独者として世界と向き合うこと。
何か社会的共同体を前提とした基盤上に立つ主体としてではなく、地べたに直で立って、この世界と向き合うこと。

「兆候」に反応するだけではなく、その反応する身体を伴った理性の運動を動くこと。

そういう「場所」を探している。

どうも、単に山を登頂すれいいというものでもなさそうだ。


柄谷行人『哲学の起源』を読み中~。

2012年12月09日 12時22分20秒 | 大震災の中で

白井聡と國分功一郎のトークを聞いたとき、
「民主主義」の限界というようなところに話が及んで、ちょっとドキッとした記憶がある。
白井さんはなにせ『未完のレーニン』一つとっても尖ってますしね。
國分さんも朝日新聞のインタビューで、そんなことに触れてたかな。

でも、「民主主義って大事!」と刷り込まれてるから、一応びっくりする。

でも、今回は横丁のご隠居さんに分かり易く解説してもらっているような

柄谷行人『哲学の起源』

を読んでいると、なるほど、そこだったら自分が分からなくてコマッテルところに届くお話だ、と納得した。

とりあえず選挙=政治的な話をここで書く気はないが、先日衆議院選挙福島県第5区の立候補予定者の公開討論会に行ったとき、議会の題一党と第二党が揃って
「中間貯蔵施設の受け入れと、特区指定、復興施策の充実」
を掲げたのには困った。
中間貯蔵施設を受け入れなけれぱ除染さえ進まないのは分かる。
予算をもらうためには政府の言うことを聞かないと進まないのも分かる。

でもこれってやっぱり「植民地支配」の典型的パターンだよね?

という疑問がなくならないのだ。

唯一反対した党は、中間貯蔵施設を無人島に持って行け、という話をしていた(笑)。

柄谷行人が哲学の起源について、2000年以上前のイオニアをめぐって書いていることと完全に符合してしまう「今」現状が、ここにあるわけです。

こちらも参照いただければ。

メディア日記「龍の尾亭」
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980403


テキストを読まないといかんなあ、と本当に思う。

無論読んだからって
「どうすればいいのか」
という答えがそこにあるわけじゃない。

でも、「知的」であることと「生きる」ことを分離したり切り分けて平気でいちゃいけない、と思う。
「理性」だけでは足りないのだね。

さて第二章をこれから。