物事が見えてきた、という迷妄感覚(3)
しかしやはり、物事の理解が深まってきた、という手応えは、確かなものがある。
つまり、経験値を単なる知識データベースとしてだけ用いるのではなく、もう一段汎用性を上げたスタンスとして使えるようになってきた、という感覚だ。
つまり、無駄な力を抜くこと、といってもいい。
経験上省けるものを省く、という「職人」の技、ということとはちょっと違う。
ズレやゆらぎ、裂け目と出会ったときのステップ感覚の洗練
とでもいえばいいだろうか。無駄な動きをすると、重心がずれたときにはつまずいたり転びやすくなる。
うまくいかないときのスタンス、というか、そのときに必要な緩急のバランス、というか。
それは、むしろある種のまだらな「ぼけ」というか、ウェイトをかけないようにしつつ、しかしもしそれが必要になったなら、周辺から呼び出すこともできる、みたいなね。
全く新しい分野で、ずぶの素人としてやるのは大変かもしれないけれど、経験をきちんと外部化して、分析をしつづけてくると、その経験が古くなったとしても、外部化し、分析してきた姿勢は、変化に対応できたり、バリエーションが増えてもついていけたりする。
そういう意味で「物事が見えてきた」、ってこともあるような気がする。
むろん、それは体力や知識、記憶や柔軟さ、対応力、洞察力、決断力、持続力、などなど、知的な総合能力としてのバランスの結果にすぎない。
だが、何かに突出しているわけでもない者が物事をきちんと観ようとしたら、ぼける寸前までちまちまと続けてきて、一瞬退却するまえに、蝋燭が消える前のゆらぎのような中で、危ういバランスが取れて「見える」ことを結果するのかもしれない。
少なくても、今はそう思っていたい。そのバランスはむしろ「動的」であってほしい。ずっと「見える」なんて思い込みはこちらから願いさげだ。ぎりぎりの危うい失われていくものと引き替えの瞬間のバランスの中で「見える」もの。
その感じを、脳みその「ショート」現象を受け止めながら、なおもプラスとして楽しみたい、と今は思う。
失われていく体力・知力の下り坂の一瞬だからこそ、の瞳の有効性を、それでもなお、求めていきたい。
しかしやはり、物事の理解が深まってきた、という手応えは、確かなものがある。
つまり、経験値を単なる知識データベースとしてだけ用いるのではなく、もう一段汎用性を上げたスタンスとして使えるようになってきた、という感覚だ。
つまり、無駄な力を抜くこと、といってもいい。
経験上省けるものを省く、という「職人」の技、ということとはちょっと違う。
ズレやゆらぎ、裂け目と出会ったときのステップ感覚の洗練
とでもいえばいいだろうか。無駄な動きをすると、重心がずれたときにはつまずいたり転びやすくなる。
うまくいかないときのスタンス、というか、そのときに必要な緩急のバランス、というか。
それは、むしろある種のまだらな「ぼけ」というか、ウェイトをかけないようにしつつ、しかしもしそれが必要になったなら、周辺から呼び出すこともできる、みたいなね。
全く新しい分野で、ずぶの素人としてやるのは大変かもしれないけれど、経験をきちんと外部化して、分析をしつづけてくると、その経験が古くなったとしても、外部化し、分析してきた姿勢は、変化に対応できたり、バリエーションが増えてもついていけたりする。
そういう意味で「物事が見えてきた」、ってこともあるような気がする。
むろん、それは体力や知識、記憶や柔軟さ、対応力、洞察力、決断力、持続力、などなど、知的な総合能力としてのバランスの結果にすぎない。
だが、何かに突出しているわけでもない者が物事をきちんと観ようとしたら、ぼける寸前までちまちまと続けてきて、一瞬退却するまえに、蝋燭が消える前のゆらぎのような中で、危ういバランスが取れて「見える」ことを結果するのかもしれない。
少なくても、今はそう思っていたい。そのバランスはむしろ「動的」であってほしい。ずっと「見える」なんて思い込みはこちらから願いさげだ。ぎりぎりの危うい失われていくものと引き替えの瞬間のバランスの中で「見える」もの。
その感じを、脳みその「ショート」現象を受け止めながら、なおもプラスとして楽しみたい、と今は思う。
失われていく体力・知力の下り坂の一瞬だからこそ、の瞳の有効性を、それでもなお、求めていきたい。