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臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津 交易商人たち1

2015年05月23日 07時57分05秒 | 坊津枕崎

 一乗院跡にこのような頌徳碑の掲示板がありました。私はこれを見て昨年訪れたイタリアのアマルフィを思い出しました。坊津は日本のアマルフィだと。

アマルフィはピサ、ジェノヴァ、ヴェネチアといった北イタリアの名高い海洋都市よりも早く、地中海を舞台として活躍し10世紀~11世紀にかけて繁栄しました。その後1131年のノルマン人よって征服され急速に衰えていきます。(アマルフィについては2014年7月25日~8月3日に紹介しています)その間11世紀にここでアマルフィ法という現代の国際海事法の原型になるものが作られています。そして現在その景観と歴史的価値で世界有数の観光地になっています。

坊津も古くから日本三津の一つとして栄えますが江戸時代になり薩摩藩が交易港を山川港にしていたことなどから急速に衰えていきます。日本で江戸時代まで通用した海事法はこの頌徳碑の説明にある「行船約法廻船式目」です。これには坊津商人坊飯田備前守西村が関係していると書かれています。私がこの歴史と海事法を見てアマルフィを思い出したわけを理解し頂けると思います。どうですか、坊津とアマルフィが姉妹都市になるべきでは。坊津は観光地としてアマルフィと比べて遜色はありません。坊津をアマルフィと肩を並べて世界の観光地にするためのまず手始めとしてアマルフィの姉妹都市になるべきです。

その他類似点をあげてみると、アマルフィの監視塔(2014年7月31日紹介)は坊津では番所(5月8日)、大聖堂(2014年8月3日)は一乗院(5月11日)、景観(2014年7月25日など)は双剣石など(5月8日など)。

ただ、鎌倉幕府、年号、坊津商人名についてはこの廻船式目の奥書にあるのですが、これは後世の人たちの政治的な権威付けためのようであったようです。しかし、坊津の商人の名前が出ているということはこれが事実でないとしても坊津商人が日本全国で信用されていた証しであって実務上の権威付けと考えられます。(この項は輝津館の橋口さんのサジェスチョンに拠ります) 実際のこの「廻船法」成立は室町末期と考えられています。

次にある島原掃部助宗安の件に関しては事実です。この件に関して私が興味を持ったのは、「朝鮮の役」という表記でした。この事件を何と呼ぶのか以前から興味がありました。古くは「征韓の役」と呼んでいたようでその名残が原口虎雄氏の「鹿児島県の歴史」p123(昭和48年発行)にも残っていました。現在学校の教科書などでは朝鮮出兵または朝鮮侵略として「文禄・慶長の役」、韓国・朝鮮で呼ばれている「壬申・丁酉倭乱」を併記してあるものもあります。最新の藤井譲治氏の「戦国乱世から太平の世へ」(2015年)は朝鮮出兵として「文禄・慶長の役」と表記しています。したがって「朝鮮の役」は私にはちょっと珍しく感じて、執筆者のその意図は?、と思いました。

 


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