前回紹介したように、マルタ島の「青の洞門」の遊覧船観光ができませんでしたが、翌日コゾ島で同じような風景に出会いました。アズールウィンドウというのだそうです。南イタリアでは2014年7月16日に紹介したカプリ島の「青い洞窟」に見られるように青い海、洞門(洞窟)のような景観は沢山あるようです。ここアズールウィンドウでは遊覧船観光ができました。
写真はイギリスのヴィクトリア女王(1837から1901)の像です。何故マルタに?マルタはナポレオン没落後イギリスの支配下に置かれたのです。イギリスから独立してマルタ国になるのは1964年、その後マルタ共和国になります。したがって公用語はマルタ語と英語です。この二つの言語を話すのがマルタ人というわけです。なおマルタ語はアラビア語の変種だそうです。面白いのはマルタには英語の語学学校が沢山(約40)あり世界各国からの語学留学生が多数いるそうです。勿論日本からも。
ナポレオンに追い出されてからのマルタ騎士団は世界各地を転々としますが、現在は本部としてローマに建物一棟を保有して、建物はイタリアから治外法権を認められています。国連は「オブザーバーとして参加するために招待を受ける実体あるいは国際組織」として取り扱っています。マルタ騎士団は約94カ国と外交関係を持ちますが日本は国として認めていません。現在の正式名称は「ロドスおよびマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」です。病院の名前が付いているのは最初の成り立ちが十字軍ならびに巡礼者の病人看護が目的だったからです。 この病人看護についてはlonely planetは皮肉にも医学の知識はアラブからのものだったと記しています。
写真はマルタ騎士団団長の豪華な執務室です。現在はマルタ共和国大統領の執務室になっています。
しかしトルコの脅威が去ると共に、次第に軍人魂と禁欲精神を失い、海賊、商売、飲酒、内輪もめにふけるようになります。その結果、1798年ナポレオンによってあっさりこの地を追放されます。
マルタ騎士団は最初、全く軽視されていましたが、1565年の戦いでヨーロッパの救世主として尊敬されるようになりました。お金と名誉が各国君主からマルタ騎士団にもたらされました。前回紹介したヴァレッタ都市もその一つです。写真はヨーロッパ各地からもたらされた富によって1573年~1577年にかけて建立されたマルタ騎士団の守護聖人ヨハネに捧げられた教会の豪華な内部です。
オスマントルコはマルタ島をヨーロッパ進出の前線基地として狙いをつけ1565年攻略を始めました。その時マルタ騎士団が中心となり4カ月の攻防の結果撃退に成功します。その勝利の日9月8日は今では祭日になっています。その時のマルタ騎士団の団長がヴァレッタです。写真はその彼の銅像です。
シチリア島ノートから少し南下してポッツァレという港街からフェリーで2時間のマルタ島に向かいました。(2014年5月6日の旅程図)マルタ共和国はこのマルタ島、コゾ島、コミノ島からなる人口41万人の小さな国ですが、EUにも加盟しています。マルタ島とコゾ島を観光しました。
マルタと言うとマルタ騎士団を思い出す人が多いとおもいます。そこでそこからは始めます。マルタ騎士団は3大十字軍騎士団の一つ聖ヨハネ騎士修道院に始まります。この騎士団は1070年にアマルフィの商人によって結成されました。(2014年7月28日に紹介)
その後、十字軍の敗退によってロードス島に退きましたが、ここからもオスマン帝国から追い出されます。その時の攻防を描いた小説が塩野七生氏の「ロードス島攻防記」です。(2008年3月7日に少し紹介)その後、各地を転々としますが、1522年神聖ローマ皇帝によってマルタ島を所領として授かります。その時の年貢が鷹1羽だったそうです。そしてこのマルタはイスラーム勢力に対するキリスト教勢力の最前線基地となります。ついに戦火が開かれたのは1565年でした。それについては次回で。
写真はアマルフィの商人たちによってマルタ騎士団の前身、聖ヨハネ騎士修道院が結成されたということを示すものです。左がマルタ騎士団紋章で、右がアマルフィ共和国紋章です。同じですね。なおマルタ騎士団の紋章の場合、デザインはイタリア語、フランス語、プロヴァンス語、オーヴェルニュ語、カスティリア語、アラゴン語。ドイツ語、イングランド語(計8語)を母語とする人たちで構成されているということも象徴しています。