ブルネイ王国は石油で潤う富豪国です。そのため各国から沢山の出稼ぎ人が来ています。写真はブルネイの空港の売店で出会った出稼ぎのフィリッピン人と私です。写真を撮ってくれた空港従業員もフィリッピン人でした。みなさん明るい人たちでした。
グルン・ムルン国立公園では昼食をするレストランなどはありません。普通はホテルなどでランチボックスなどが用意されるのですが、ここではガイドのフィリップの奥さんの手作り弁当をいただきました。美味しかったです。ジンジン!
ボルネオ島サラワク州にある世界遺産のグヌン・ムル国立公園の案内は少数民族プナン人(2万人)のフィリップさん(マレーシアの人たちはヨーロッパ風のニックネームを対外的によく使用します)でした。公園の密林で植物にかかわる彼らの伝説を熱っぽく語ってくれました。彼らの言葉を一つ教えてもらいました。「ジンジン」ありがとうという意味です。というわけで、最後の別れの挨拶はジンジンでした。ちなみにマレー語の「ありがとう」は「テレマカシ」でどこかで聞いたことがあると記憶をたどるとインドネシア語と同じでした。
粗末な土産物店があり、店番にプナン人がいました、背が低い感じがしましたので、現地ガイドに聞いたところそうだとの回答がありました。アフリカの狩猟採集民族ムブティ人が背の低いことで有名ですが、それと同じく森林生活に身長が適応ということだと思いました。
マレーシアは多民族国家であることはすでに紹介しましたが、ボルネオ島(サラワク州、サバ州)は特に多数の少数民族が居住しています。その一つサラワク州グヌン・ムル国立公園の近くに住むプナン人の集落を訪れました、
現在の人口は約9500人で1950年代までは狩猟、採集の遊牧生活をしていました。現在政府とキリスト教宣教師によって定住化が勧められています。定住化については生活手段など難問がありプナン人の抵抗もありましたが定住化した集落の一つを訪れたということです。まだ少数ですが遊牧生活をしている人たちもいます。
写真のように高床住居ですがこれは仮設で将来的には次ペイジの写真のような集合住宅になる予定ですが予算関係などから未完成のようです。
プラナカンはババ・ニョニャとも言われることがあります。ババは男、ニョニャは女を意味します。マラッカでババ・ニョニャ・ヘリテージ博物館を訪れました。持ち主はゴム農園などで多くの財をなした生粋のプラナカンChan 一族で1985年に一般公開され始めました。内部は撮影禁止なので写真で紹介できませんが、「マレー半島 美しきプラナカンの世界」(イワサキ・チエ 丹保美紀著)の一文を転記にさせてもらいます。
「品格のある漆黒の扉が開き、一歩足を踏み入れたとたん、ヒンヤリとした暗がりの中から浮かび上がる金や銀、クリスタルの輝き、床から天井までを覆いつくす豪華な装飾に、一瞬足がすくんでしまう。贅をこらした優美な空間は、マラッカでもっとも素晴らしい見どころのひとつだ」(p53)
この博物館で聞いたところによるとプラナカンの人口はマレーシア全体で7500人、そのうちマラッカでは6000人という話でした。私が尋ねたここの係の人はプラナカンではないとの返事でした。
マレーシアでは「ブミプトラ政策」がとられています。ブミプトラはマレー語で「土地の子」を意味します。人口の6割以上を占めるマレー系住民の経済的地位を向上させるため、経済、教育、就職面などで優遇する政策で、1971年から始まりました。
今回の旅行のマレー半島(ペナン、クアラランプール、マラッカ)での現地ガイドの皆さんはすべて中国系で日本語が堪能な人たちでばかりでした。そのうちの一人が商店街を歩いている時「ここで商売をしている人たちはほとんど中国系の人たちですが、中国系の人たちは商売だけをしたいわけではないのですが」とつぶやき言外に中国系は商売だけしかできないと言っているようでした。そこで私はそれは「ブミプトラ政策のせいですか」と尋ねた所、「そのことについては話すことはできない」との返事でした。別の現地ガイドはバスの中で私が「ブミプトラ政策」につて質問をしたところ親戚に警察官がいるが出世はでいないでしょうなどいくつか答えた後、「このバスの運転手は日本語が分からないマレー人なのでよいのですが、もしわかれば大変なことになります」と話しました。「ブミプトラ政策」についての話はタブーのようでした。そして不満は鬱積しているようでした。
プラナカンとは15世紀ころより中国からマレー半島にビジネスチャンスを求めてやってき、現地のマレーシア人と結婚した中国人の子孫を言います。現在マレーシア、シンガポール、インドネシアなどに住み独自の文化を持っています。3月31日に紹介した鄭和に起源を持つという説もあります。多民族文化国家の象徴的人々と言うことができるかもしれません。純マレーシア風でもなく純中国風でもない独自のコトバ、工芸、食べ物など独自の文化を持っています。それにヨーロッパ風のものも取り入れています。まさにコスモポリタンですね。
ペナンにそのプラナカンの住居が博物館として公開されており訪れました。客家系のプラナカン、商人であり、秘密結社のリーダー、地域社会の中心人物であったチュン・ケン・キーが19世紀に建てた住居です。写真はその入り口です。