素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

人種とは・日本人の昔を探る(26)

2020年09月17日 14時24分18秒 | 人種とは・日本人の昔を探る

    人種とは・日本人の昔を探る(26)

  

   日本人の昔を探る(その2)

 (10)縄文人の暮らしと「食」について-その3-

 縄文人の食文化が豊かだったのは、狩猟具、漁撈具の技術、及び調理の技術(あく抜き、渋抜き、さらしなどの技術)、そして定住化が進むことで、貯蔵の技術、住まいの大型化など技術の進化によるところが大きかったと言えそうです。

 ところで、定住生活には、食料の持続的供給が出来ることが大切です。そのためには、食料の生産を生業としなくてはなりません。日常の主食となる植物を自分で育てること、いわゆる栽培です。しかし、そのためには荒れ地なり、森や森林を開鑿しければなりません。

 まずは開鑿に必要な用具を考案しなくてはならないわけで、いきなり荒野や山林の伐採が出来るわけではありません。おそらくは、自然発生した野火の後を活用したのではないかと思います。大昔の人々が最も恐れたのは野火だったと思います。野火を消火することは出来ませんから、自然消火を待つしかありませんでした。

 一方、野火の後には人々にとっては、自然の思わぬ恵を得ることも出来たのではないかと思います。多くの根茎植物(じねんしょなどやまいも類やユリ、カタクリ類など)が野火の後、掘り出せたと推測できます。

 野火により、森や山林では生い茂っていた下草や低木などの樹木が燃えて、開鑿がし易くなるなど野火のメリットもあったと思います。

 野火の後は、野焼きの原理で、一雨降ると新たな生命が芽吹くと言う知恵も、縄文人たちは、自然から学んだのではないかと考えられます。そこから、植物を育てる知恵も自然から授かったのではないかと推測できます。

 自分たちが生きて行く上で、土を耕す知恵、そのための道具も生み出せたのではないか、そんな風に考えて見ることもできます。

 栗の木などのやけぼっくりをナイフ形石器で削り、木製のシャベルや木製の鋤のような耕作用具を何百年もの長い年月をかけて、縄文人は進化させてきたものと考えられます。埼玉県の南鴻沼(みなみこうぬま)遺跡からは、縄文時代の鋤形木製品が発見されています。

 先史時代から人間が生活するに当たっては、土を掘るという行為は大変重要な活動の一つでした。竪穴住居を建てるにしても、土を掘って柱を建てなくてはなりません。

 また食料を蓄えるにしても、狩りのための落とし穴を掘るにしても、田畑を造成し、農耕をするにしても、水路をつくるにしても土地を掘る、掘削することは不可欠です。したがって、掘るのに適した道具を得ることも、太古の昔から人々にとって重大な関心事であったにちがいないのです。

 下記の写真は、南鴻沼遺跡から出土した縄文時代の木器の鍬の一種だと考えられます。土地を掘る用具は、軽くて使いやすい、しかも丈夫な木材を使った木器が考えられたと言えます。

  (注)写真は割愛します。 

 もう一つ大事なことは、人間が野生の馬や牛を家畜化(Domestication)することで、作業を効率的に進めることに成功し、農耕や食肉に役立てることで、飛躍的に生業を発展させることに成功したことだ、と考えられます。

 大昔、先史時代から現在に至るまで人間が家畜化できた野生動物は14種だけだと言われています。その中でも牛、羊、山羊、豚、馬の5種は大人しく人間になれ易かった、と考えられています。

 いろいろ調べて見ますと、人間は、大型哺乳類を家畜化しようと何千年もの間努力をして来たのですが、大きな成果がありませんでした。人間にならすことが出来ても、家畜になるとは限らないのです。世界は広いですから、ゾウのような超大型哺乳獣を人間の役に立つように飼いならすことに成功した例も見逃せませんが、人間に共通の家畜化と言えるかは議論があると思います。

  日本列島にも太古の昔にゾウが生息していましたが、縄文時代が始まる大分前に絶滅していますので、ゾウを家畜化することはなどありませんでした。旧石器人がゾウを狩猟することはありましたし、日本列島におけるゾウの絶滅の原因を人の過剰殺戮ではないか、とする専門家も一部にはいます。

 したがって、家畜化する(domesticate)などと言うことは小生には考えられません。また、馬や牛についても、縄文時代凡そ1万年の間に生息していたかどうか、その確証がありません。家畜化するようになったのは、弥生以降のこと(古墳時代から)ではないか、と考えられています。ただ、牛骨が出土するのは弥生時代からで、日本で家畜化されたものか、近隣の中国とか朝鮮から入って来たものなのか、明確ではないようです。

 ところで、縄文の中期頃からは、安定した主食として米麦の生産が行われるようになったと言われています。定住化が進み、人口も増え、集落が大きくなりますと、採取だけで食べ物を賄うことは難しくなりますから、安定的な食料の確保が大切な生業となり、男たちも狩猟活動から森などを開拓し、植物を育てる土地を開鑿し、集落の周辺には田畑が作られるようになったものと考えられます。