ー(13)の増補版その(2)ー(20)
《野尻湖の湖底は、ナウマンゾウの化石の宝庫》
長野県の県北にある野尻湖、その湖底は、ナウマンゾウやオオツノジカの化石骨の宝庫と言われています。発掘場所の正式名称は、長野県信濃町大字野尻湖「立が鼻遺跡」と言います。今日では余りにも有名です。2016年3月の発掘で第21次発掘が行われました。
野尻湖の湖底から発掘されたナウマンゾウの臼歯化石だけでも、凡そ40頭分が産出されたと言われていますし、またナウマンゾウやオオツノジカが生息していた時代、古環境を形成していたと推測できる植物や昆虫の化石も、そしてすでに居住していたと考えられている「野尻湖人」がゾウやオオツノジカ狩りのために製作したと見られる多くの石器(ナイフや斧)、骨器類(クリーバー:なたの一種)も多数出土しています。そのすべての出土品は、住民をはじめ発掘に参加した人々の貴重な財産として、信濃町の博物館、「野尻湖ナウマンゾウ博物館」(以下、単に「博物館」と書くこともあります。なお、博物館は1984(昭和59)年7月1日開設された。)で展示されています。
発掘作業は、専門家だけでなく北海道から沖縄まで全国各地から集まった子どもから大人まで、延べ24,000人を超える発掘者によって行われましたし、今も1年おきに継続して発掘作業が行われています。博物館発行の『展示解説』によりますと、地元住民、信濃町役場からの援助が中心で、その他には「どこからかの資金に頼るということもなく、参加者からの参加費、書籍等の売上収入等によって運営する」、自前(いわゆる手弁当)の発掘方針がとられています。
さらに、「発掘ではこどももおとなもみな、かならずひとつは係や班の仕事を分担することになっています。そこにはひとりのお客さまもいません。全員が力量に応じて任務を分担するのです。これを、『野尻湖方式』とよんでいます」(野尻湖ナウマンゾウ博物館『ナウマンゾウの狩人をもとめて:展示解説』(第二版、平成25年3月29日)、と述べられています。
発掘された化石、石器、骨器そして木器の類はすべて野尻湖発掘調査団が収集し調査を行った上で博物館に展示、公開されていますが、さらに専門の学芸員らの研究が続けられています。その意味では、「野尻湖ナウマンゾウ博物館」は、ナウマンゾウの研究ができる唯一の博物館であると同時にわが国唯一の「ナウマンゾウの研究センター」でもあるように思います。
発掘は2年に1回の予定で、民間の学術団体である「野尻湖発掘調査団」よって続けられ、前にも述べましたが毎回3月の下旬に行われていますが、この時期は水力発電で水位が3メートルくらい低くなり、干上がった遠浅の湖底で発掘作業が行われています。
野尻湖の湖底は、6万年前から現在まで湖底に溜まった泥や砂がおよそ数メートルの厚さに堆積していると推測されています。その地層には、ナウマンゾウや多くの動植物の化石や遺物が堆積し「水成層」を成していると見られています。それが「野尻湖層」と呼ばれている地層です。その地層の研究と発掘は深い関係を有しているようです。ナウマンゾウやオオツノジカが生息していた頃の野尻湖の古環境、地層の研究を進めるとともに氷河時代の野尻湖の研究も行われてきたと言われています。
その意味では「層位第一主義」の発掘が、今年(2016年)も3月18日から28日まで第21次発掘調査が行われましたが、参加者の条件は、「3日間発掘調査が出来ること」、が参加の条件になっています。
さて、この博物館を見学して、ひとつ物足りなさを感じたのですが、それは住民とともに歩んだ長い発掘の歴史があり、そしてナウマンゾウ研究に関してもまた大きな実績を挙げている博物館であるにも関わらず、ナウマンゾウの全身骨格標本の常設展示が行われていないことです。何か理由があるのかも知れませんが。
確かに、展示中央に陣取ったナウマンゾウの実物大の復元「像」が常設展示されています。大きな2本の牙を突き出すように力強い印象を与える「像」に復元されています。忠類ナウマン象記念館に常設展示されている全身骨格復元標本ではなく、ナウマンゾウの生息していた姿「像」として制作されたものです。
野尻湖のナウマンゾウの化石は、戦後間もない1948(昭和23)年10月、湖畔で旅館を営む主人、加藤松之助氏によって、湯たんぽのような化石と称されるナウマンゾウの臼歯の化石が発見されたことに端を発しています。野尻湖発掘調査団著(以下「調査団」と書く)『象のいた湖 野尻湖発掘ものがたり』によりますと、加藤氏がある日の早朝5時ごろ湖岸を散歩していて、砂に半分埋まった湯たんぽのような石のかたまりのようなものに気付いたので家に持ち帰えったそうです。近隣の人々に見てもらっても何であるか分らなかったそうです。そこで野尻湖小学校の校長先生にも見てもらったが分らず、ひとまず小学校に保管してもらいました。調査団の『前掲書』には次のようなことが記されています。
「ちょうどそのころ、野尻湖の周りの地質調査をしていた、富沢恒雄先生(当時長野高等学校の地学の先生)が、その発見を知りました。富沢先生は、その当時、野尻湖のまわりの大昔の湖のようすを調査にきていた堀江正治さん(京都大学)の手をわずらわして、この化石の鑑定を京都大学の槇山次郎教授におねがいしました。その結果、この化石は、ナウマンゾウの上顎の第三大臼歯(三番目の奥歯)であることがわかったのです」、と言うわけで、前出の富沢先生は、それを研究して1956年、日本地質学会の専門誌『地質学雑誌』に論文を投稿されたことから、地質学や化石考古学などの専門家の関心を惹くとことになりました。
同博物館の「展示解説」によりますと、加藤氏が発見したナウマンゾウの臼歯の化石は、長さが30㎝、重さが5㎏もあったそうですが、その臼歯は専門家の鑑定によってゾウの「上顎の第三大臼歯」だったことが分りました。それは人間の歯でいえば、一番後で生えてくる「親知らず」のような歯だそうです。
野尻湖畔では、その後もナウマンゾウの化石が多く発見されたことから「第四紀(260万年前~現在)の地層を調べていたグループが中心となって、1962(昭和37)年3月に、野尻湖底の発掘がはじめられられました」が、それ以来、今日まで半世紀に及ぶ湖底発掘調査が続けられております。第1次発掘が1962年3月26日から3日間の日程で行われて今年で第21次発掘調査が実施(2016年3月18日〜3月28日)されました。
その間、2万4000人以上が全国規模で発掘に参加し、2012年3月現在で8万3000点のさまざまな化石、野尻湖人(縄文人?)が使用したと見られる石器、骨器そして木器など多数が発掘されています。そしてその間に、故亀井節夫(発掘開始当時信州大学教授、その後京大教授)ら専門家の助言もあって、野尻湖ナウマンゾウ博物館構想が持ち上がり、信濃町の一大事業として、1984年に町立のナウマンゾウ専門の博物館が建設されました。
全国初のナウマンゾウ博物館は、1984年7月開館しました。その後、博物館ではありませんが、旧忠類村(現在、北海道幕別町)には立派な忠類ナウマン象記念館が1988年に開館しました。
「忠類ナウマン象記念館」もまた忠類晩成で発見、発掘されたナウマンゾウの臼歯化石、そして亀井節夫の指導で完成した忠類産ナウマンゾウの全身骨格「像」として復元された標本(複製)および太古の古環境を示す植物・種子・花粉に至る化石を常設展示したこれまた全国唯一のナウマンゾウ専門の記念館がありますが、それは北の大地北海道にゾウが生息していたという証しでもあるのです。
(文献)
(1)野尻湖ナウマンゾウ博物館『ナウマンゾウの狩人をもとめて:展示解説』・同博物館、平成15年3月。
(2)野尻湖発掘調査団『増補版 象のいた湖 野尻湖発掘ものがたり』・新日本新書
454、1992年6月。
(3)野尻湖ナウマンゾウ博物館『野尻湖の自然と人間』・同博物館、1990年3月(初
版)。
(4)野尻湖発掘調査団『野尻湖人をもとめて:野尻湖発掘50年記念誌』・野尻湖ナウマンゾウ博物館、2011年9月。
(5)『野尻湖ナウマンゾウ博物館20年の歩み(1984~2004)・同博物館、2005年3月。