天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ 

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても あはむとぞ思う

正身

2014年01月01日 | 不易
【正論】年頭にあたり「日本人に返れ」の声が聞こえる 2014.1.1 02:25 □文芸批評家 都留文科大学教授・新保祐司より抜粋
 出光興産の創業者、出光佐三に『日本人にかえれ』と題した著作がある。この40年ほど前の呼びかけは、今日一層の重みを持って日本人の心に響いてくるのではないか。
 今や、日本人は精神の芯を大方(おおかた)失ってしまったからである。文明開化以降150年ほど経過して、特に「戦後民主主義」の下で日本人であることからあまりにも離れてしまった現在の日本人は、改めて「日本人にかえ」らなければならなくなったのである。
 出光佐三の言葉に「僕は青年に呼びかける。政治家をあてにするな、教育に迷わされるな、そして祖先の伝統の血のささやきを聞き、自らを頼って言論界を引きずれ、この覚悟をもって自ら鍛錬し、修養せよ、そして、その目標を明治時代の日本人たることに置け」という呼びかけがあるが、この「祖先の血のささやきを聞」くことによって日本人は「日本人にかえ」ることができるのであり、戦後の風習や世上を覆う通念から「脱却」しなければならない。~抜粋ここまで

 「明治時代の日本人」とは、「論語」、「大学」などを学び、自由、民主主義を追い求めた人々と想像します。自ら学んだのではなく、押し付けられたとする実際の民主主義の下での人々は、明治時代以前の特別な権力者、権力体制にかえろうとしてきたと想像します。まず目標を明確にしなければなりません。

余録:これでまあ/七十年生きてきたわけやけど…
毎日新聞 2014年01月01日 00時49分(最終更新 01月01日 02時10分)
 これでまあ/七十年生きてきたわけやけど/ほんまに/生きたちゅう正(しょう)身(み)のとこは/十年ぐらいなもんやろか/いやぁ/とてもそんだけはないやろなあ/七年ぐらいなもんやろか/七年もないやろなあ/五年ぐらいとちがうか/五年の正身……▲京都の詩人、天野忠(あまの・ただし)の詩「新年の声」である。詩はこう続く。<ふん/それも心細いなあ/ぎりぎりしぼって/正身のとこ/三年……/底の底の方で/正身が呻(うめ)いた。/--そんなに削るな。> わが「正身」の声にじっくりと耳を傾けたくなる新しい年の訪れである▲ぶ厚い日めくりとまだ白紙の日記と。過ぎた年も多くの時を無駄にした身には、新たにまっさらな時間がたっぷり与えられたように感じる新年のありがたさだ。もっとも今年もしばらくすれば「正身」の乏しい時のよどみに身を委ねるはめになりそうなのが情けない▲ただ未来へ一直線に流れる時しかなければ人生はひどく息苦しくなろう。逆にまわり巡(めぐ)る時しかなければ人の世から歴史や未来への方向感覚が失われる。その二つの時間の中で、世代から世代へと受け継がれるべき良いもの、美しいものがこの世の「正身」であろう▲去年を振り返れば、震災の被災地の復興は滞りが目立つ。経済の持続的回復の筋道はなおも描けていない。日本を取り巻く国際環境は不確実性を増した。ともすれば時代の方向感覚を失いがちな世にあって、私たちはどんな未来を次の世代へと譲り渡せるのだろうか▲人々の新たな出会いや協力がこの世の時を未来へと刻み直し、継承さるべき「正身」を生み出していく。新しい年がそうなればどんなにいいだろう。

 69年になる民主主義憲法下にありながら、特別な権力をもちたいと生きてきた人の正身は、天の岩戸に閉じこもったままです。岩戸から誘い出すような方策を考えなければ…。顔を覗かせた時、69年の正身となります。