とんねるず主義+

クラシック喜劇研究家/バディ映画愛好家/ライターの いいをじゅんこのブログ 

「タクシードライバー」その4

2006年03月15日 01時11分50秒 | とんねるずコント研究
前回は、タカさん演じる乗客について考えた。今回は、ノリさん演じるドライバー・吉田の造型の意味について考えたい。

「その1」でも説明したが、吉田はごく普通の、まじめなタクシー運転手である。タクシー会社の制服をきちんと着て、手には律儀に白い手袋をはめている。小さい息子がおり、キャッチボールのためのバットを勤務中に買っていることから、彼の子煩悩さがよく伝わる。個人タクシーの資格がとれたら、妻(「カアちゃん」)が喜ぶだろう、と、妻にたびたび言及することから、夫婦仲も良いことがわかる。つまり、ごくありふれた、しかしあたたかい家庭をもつ気のいい男、それが吉田である。

彼は、個人タクシーへの夢を乗客に語る。お客さんのために車内にティッシュを置くつもりであることや、ギアに大きい水中花の飾りをつけたいということ、またアメ(キャンディ)のサービスもしようと思っていることなどを、「関係ない話ばっかりで…」と恐縮しながらも饒舌に話す。個人タクシーを始められるということに対して、彼は喜びのあまり興奮しているのだ。この喜びには、長い年月の苦労がようやく報われる、という意味合いがもちろん含まれているだろう。

それがわかるのは、彼の年齢設定のためである。ノリさんははげ上がった白髪のカツラをかぶり、顔にはシワのメイクをほどこしている(*1)。はっきりとした年齢は言及されないが、見た感じ50才代後半から60才代前半といったところだろうか(*2)。40代で脱サラし、タクシー会社勤続20年、真面目ひとすじで働いてきて、ようやく一国一城の主になれるところまでこぎつけた---そんな男の人生を、観るものに想像させる。

しかも、個人タクシー用の車としてクラウンを買ったことを、多少自慢げに語るところから、彼がいままでの貯えをすべて個人タクシーの夢に投資し、人生の大きな賭けに出た、ということさえ読み取れる。

このような吉田をめぐるサイドストーリーは、それだけをとって見れば、ドラマにもなりそうもない、平凡なものでしかない。しかし、このコントにおいては、きわめて重要な意味をもつ。

それは、吉田が「後戻りできないところまで来ている」ということを意味するからだ。彼は、ここ数年、人生のすべてを個人タクシーの夢に賭けてきた。たとえささやかでも、その夢があったからこそ、がんばってこられた。それは吉田の夢であり、また家族の夢でもあったのだ。

もし彼がまだ若ければ、たとえ交通違反などでつまづいたとしても、また一からやり直しがきくだろう。また3年間無事故無違反でがんばればそれでいいのだ。しかし、彼の年齢はそれをゆるさない。彼には、ふりだしに戻ってやり直す時間も気力も体力も、もうないだろう。いわば、これが吉田のラストチャンスだったのだ。

このことの意味は重い。風船が大きくふくらめばふくらむほど、破裂した時の衝撃は大きくなる。吉田の夢は、もうほとんど実現しかけていた。あと15分、10分、6分・・・吉田は、夢をほぼその手でつかみかけていた、長年の夢を・・・・・・しかし、風船は、破れた。あと2分というところで。

ここまでしっかりと構築されたサイドストーリーがなければ、ラストでの吉田の"狂気"は説得力をもたないだろう。逆に、これだけの背景があるからこそ、吉田が殺人をするという結末が、衝撃的でありながらもリアリティを持ち、犯罪でありながらも同情の余地を残すものになりえるのではないだろうか?

単に客をこわがらせようとするネタを超えて、きわめて深い人間洞察にもとづいたコント=芝居が、ここにできあがっていると見るべきだ。

そして、とんねるずの人間洞察力が、「革命へようこそ」にも表れていた「弱きものへの視線」に裏づけられていることが、よくわかるのである。これについては、次回。


(*1 収録コントの前半では、ノリさんはまゆ毛をメイクでつぶしているが、後半ではまゆ毛がある。違う日の上演分を編集しているためである。)

(*2 この年齢設定だと、幼い息子がいることとの整合性にやや欠けはするのだが、バットを助手席に置く理由づけのためには、息子の設定はどうしても必要だったのだろう。バットの代わりに、たとえば吉田自身のゴルフクラブを置くという選択肢も考えられるが、それでは吉田の小市民性が十分出ず、観客の共感や同情を得にくいだろう。息子の父親、という設定がここではやはりベストだと言える。)



その5で終わり!



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