『セルロイド・クローゼット』
(The Celluloid Closet ロブ・エプスタイン&ジェフリー・フリードマン監督 1995 アメリカ)
「稚姿(ちごすがた)は幽玄の本風なり」---
500年以上前に世阿弥が明言したごとく、ジェンダーの境界を越えた存在というのは、常に日本の伝統芸能の原動力でした。
世紀を重ねても、この伝統はまだ生きています。
英国のシェイクスピア劇も、中国の京劇もいまでは女優が出ているけれど、歌舞伎や能、狂言はいまも男性だけが演じ、古典として高く評価されている。女性だけで構成される宝塚歌劇団は、人々の夢と羨望の的でありつづける。そしてレイザーラモンHGが人気者となる(ちょっと違うか)。
しかし、キリスト教文明圏では事情は大きく違う。同性愛や異性装(トランスヴェスタイト)は社会から排斥され、激しい差別と偏見の対象となってきました。ハリウッド映画界でもそれは同じ。いまでこそゲイムービー花盛りですが、1940~60年代にはそれをあからさまに描くことなど不可能だった。
それでも、映画の作り手たちは、手をかえ品をかえ、作品のそこここに暗号のように同性愛的な要素をひそませていった---頭のカタイ検閲官たちが到底気づくはずもない繊細さをもって。
ハリウッド映画史を、同性愛者の視点から読み直したドキュメンタリー、それが『セルロイド・クローゼット』です。わたしはこれをあえて「ハリウッド裏映画史」とは呼びたくない。だって、ゲイの人々から見れば、まさにこれこそが「表」の映画史であるはずでしょうから。
映画は、120にものぼるハリウッド映画の数々のシーンと、映画関係者・俳優・作家などのインタビューとで構成されています。映画自体のメッセージ性はむしろ弱く、スキャンダラスな内容でもありません。ただ純粋に、ハリウッド映画が表象してきたゲイ・イメージと、それに対する人々の感想を提示しているだけ。
しかし、そのシンプルさこそが、この映画の良さです。
実際、『ベン・ハー』や『理由なき反抗』、『熱いトタン屋根の猫』や『レベッカ』といったハリウッド・クラシックが、実は同性愛の物語にささえられているとは---正直なところ驚きでした。でもかんがえてみれば、映画にかくされたそういう要素が、観客の無意識にはたらきかけ、感動を呼び、"古典"となったのかもしれない---。
インタビューには、トム・ハンクス、ウーピー・ゴールドバーグ、スーザン・サランドン、トニー・カーチスといった錚々たる役者たちも出演しています。中で興味深かったのは、スーザン・サランドンが『テルマ&ルイーズ』について語るパート。
『テルマ&ルイーズ』は、ふたりの女性(サランドン/ジーナ・デイビス)の友情を描いたロード・ムービーです。そのラストシーンで、警察に追い詰められ、悲壮な決意をしたふたりは、思わずキスをします。そのキスは脚本にはなく、ふたりのアドリブだったらしい。
サランドンはそのキスについて、「セクシャリティをも越えた"愛"の表現よ」と語っているんですが、その時おもわず、とんねるずのドラマ「お坊っチャマにはわかるまい!」を思い出しました。
このドラマでも、最終回のラストシーンで、タカさんとノリさんがキスをします。はみだし者として孤独に旅立たざるをえない北原天気(タカさん)の、ただひとりの理解者は正美(ノリさん)でした。一緒に行くと言ってくれた正美への、それは天気のせいいっぱいの、そして最大の"愛"の表現だったんだろうと思います。---もっともタカさん自身は「キスでもさせりゃおもしろいんじゃない、って監督が考えたんだろ。意味はわかんないけど」と言ってますが(笑)。
---映画に話をもどして。
『セルロイド・クローゼット』でもうひとつすぐれているのは、ゲイであることをカミングアウト(Out of closet)したたくさんの映画人のインタビューをとっていることです。その中にもさまざまな立場や考えがあって、映画の中の同性愛の描かれ方に対しても、さまざまな見方があることがわかる。
・・・考えてみれば、そんなのあったりめーのことなのに、なぜかステレオタイプで見てしまっていた自分がいる。それを思い知らされたことも、わたしにとっては大事な収穫でした。
大好きな映画『お熱いのがお好き』のラストシーン・・・女性のふりをするジャック・レモンが、彼に言い寄る中年百万長者をなんとか追っ払おうとする。
「私、ホントは金髪じゃないの!」「関係ないね」
「タバコ吸うし!」「かまわないよ」
「過去にいろいろあったキズモノよ!」「許すさ」
「子供ができないの」「養子をもらえばいい」
「あーもう、わからない人ね!オレは男なんだよ!!」「完璧な人なんていないさ」
・・・最高(笑)。誰もがこの中年百万長者みたいに寛容になれたなら、世界はもっと楽しくなるだろうに!
(The Celluloid Closet ロブ・エプスタイン&ジェフリー・フリードマン監督 1995 アメリカ)
「稚姿(ちごすがた)は幽玄の本風なり」---
500年以上前に世阿弥が明言したごとく、ジェンダーの境界を越えた存在というのは、常に日本の伝統芸能の原動力でした。
世紀を重ねても、この伝統はまだ生きています。
英国のシェイクスピア劇も、中国の京劇もいまでは女優が出ているけれど、歌舞伎や能、狂言はいまも男性だけが演じ、古典として高く評価されている。女性だけで構成される宝塚歌劇団は、人々の夢と羨望の的でありつづける。そしてレイザーラモンHGが人気者となる(ちょっと違うか)。
しかし、キリスト教文明圏では事情は大きく違う。同性愛や異性装(トランスヴェスタイト)は社会から排斥され、激しい差別と偏見の対象となってきました。ハリウッド映画界でもそれは同じ。いまでこそゲイムービー花盛りですが、1940~60年代にはそれをあからさまに描くことなど不可能だった。
それでも、映画の作り手たちは、手をかえ品をかえ、作品のそこここに暗号のように同性愛的な要素をひそませていった---頭のカタイ検閲官たちが到底気づくはずもない繊細さをもって。
ハリウッド映画史を、同性愛者の視点から読み直したドキュメンタリー、それが『セルロイド・クローゼット』です。わたしはこれをあえて「ハリウッド裏映画史」とは呼びたくない。だって、ゲイの人々から見れば、まさにこれこそが「表」の映画史であるはずでしょうから。
映画は、120にものぼるハリウッド映画の数々のシーンと、映画関係者・俳優・作家などのインタビューとで構成されています。映画自体のメッセージ性はむしろ弱く、スキャンダラスな内容でもありません。ただ純粋に、ハリウッド映画が表象してきたゲイ・イメージと、それに対する人々の感想を提示しているだけ。
しかし、そのシンプルさこそが、この映画の良さです。
実際、『ベン・ハー』や『理由なき反抗』、『熱いトタン屋根の猫』や『レベッカ』といったハリウッド・クラシックが、実は同性愛の物語にささえられているとは---正直なところ驚きでした。でもかんがえてみれば、映画にかくされたそういう要素が、観客の無意識にはたらきかけ、感動を呼び、"古典"となったのかもしれない---。
インタビューには、トム・ハンクス、ウーピー・ゴールドバーグ、スーザン・サランドン、トニー・カーチスといった錚々たる役者たちも出演しています。中で興味深かったのは、スーザン・サランドンが『テルマ&ルイーズ』について語るパート。
『テルマ&ルイーズ』は、ふたりの女性(サランドン/ジーナ・デイビス)の友情を描いたロード・ムービーです。そのラストシーンで、警察に追い詰められ、悲壮な決意をしたふたりは、思わずキスをします。そのキスは脚本にはなく、ふたりのアドリブだったらしい。
サランドンはそのキスについて、「セクシャリティをも越えた"愛"の表現よ」と語っているんですが、その時おもわず、とんねるずのドラマ「お坊っチャマにはわかるまい!」を思い出しました。
このドラマでも、最終回のラストシーンで、タカさんとノリさんがキスをします。はみだし者として孤独に旅立たざるをえない北原天気(タカさん)の、ただひとりの理解者は正美(ノリさん)でした。一緒に行くと言ってくれた正美への、それは天気のせいいっぱいの、そして最大の"愛"の表現だったんだろうと思います。---もっともタカさん自身は「キスでもさせりゃおもしろいんじゃない、って監督が考えたんだろ。意味はわかんないけど」と言ってますが(笑)。
---映画に話をもどして。
『セルロイド・クローゼット』でもうひとつすぐれているのは、ゲイであることをカミングアウト(Out of closet)したたくさんの映画人のインタビューをとっていることです。その中にもさまざまな立場や考えがあって、映画の中の同性愛の描かれ方に対しても、さまざまな見方があることがわかる。
・・・考えてみれば、そんなのあったりめーのことなのに、なぜかステレオタイプで見てしまっていた自分がいる。それを思い知らされたことも、わたしにとっては大事な収穫でした。
大好きな映画『お熱いのがお好き』のラストシーン・・・女性のふりをするジャック・レモンが、彼に言い寄る中年百万長者をなんとか追っ払おうとする。
「私、ホントは金髪じゃないの!」「関係ないね」
「タバコ吸うし!」「かまわないよ」
「過去にいろいろあったキズモノよ!」「許すさ」
「子供ができないの」「養子をもらえばいい」
「あーもう、わからない人ね!オレは男なんだよ!!」「完璧な人なんていないさ」
・・・最高(笑)。誰もがこの中年百万長者みたいに寛容になれたなら、世界はもっと楽しくなるだろうに!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます