とんねるず主義+

クラシック喜劇研究家/バディ映画愛好家/ライターの いいをじゅんこのブログ 

転校生

2006年02月25日 17時28分03秒 | 日本的電影
転校生(大林宣彦監督 1982 日本)



わたしには、「故郷」がありません。
もちろん、生まれた町という意味でのふるさとなら、あります。だけどその町は、焼け付くような望郷の念をおこさせる町では、残念ながら、ありません。
だから、そんな故郷をもっている人が、うらやましい。


そして、わたしには「青春」がなかった。中学時代は自己嫌悪の殻に閉じこもり、高校時代はその反動で、ただぼんやりとなげやりに過ごしてしまった。わたしの十代は、じつに色褪せた、あじけないものでした。
だから、ふりかえることのできる「青春」をもっている人が、うらやましい。


だから、大林宣彦という人が、とてもうらやましいのです。


現実の世界で故郷も青春ももたないわたしは、虚構の世界にそれを求めてやまない。
『転校生』という映画は、わたしの故郷であり青春の原風景そのものです。


映画の冒頭、尾道水道をうつす8ミリのモノクロ映像と、ショパンの別れの曲。
もう、それだけで、涙を流すには十分です。


千光寺の階段で、一夫(尾美としのり)と一美(小林聡美)が入れかわったあと、踏み切りを通過する列車とともに、画面がゆっくりとカラーに変わっていきます。男の子の足取りでどたどたと歩いていく、小林聡美のういういしさ。
入れかわったと気づいた一夫(小林聡美)が、自転車で陸橋を全力疾走する場面、大好きです。


でも、これはありきたりのノスタルジー映画ではありません。
青春時代にだれもが経験する、アイデンティティへの不安や、少年から大人へ変わっていく時の揺れ動き…だけではなくて、「友だち」という名のプレッシャーや、周囲に理解してもらえない孤独感をも、大林監督は描いています。


ローティーンがもつ濃密なエロティシズムもまた、息苦しいまでにこの映画には満ち満ちています。
一夫と一美が家出をして、島の旅館で一夜を過ごす場面。大人達が酒盛りでうかれさわぐ声が遠くに響く。暗い部屋で、じっと寝顔を---つまり自分自身を---見つめあうふたり。ここには、『東京物語』の、老夫婦が熱海で過ごす苦しい一夜すら反響しているようです。この老夫婦の故郷もまた、尾道でした。


それにしても、一夫と一美は、なんと幸福なふたりだったのでしょう。これほどまでに深く相手を理解し、いつくしむことができたのですから。互いの生を生きた日々こそが、彼らにとってあざやかな色にあふれた、かけがえのない日々だったのです。
ダスティン・ホフマンが『トッツィー』で女性を演じた時、「女」を生きてみてはじめてその苦しみ、悲しみが理解できた、と言って彼は泣きました。「女」として、「女」のために、彼は泣きました。


彼らのような経験を、現実世界でわたしたちが経験するのは、不可能です。
それはなんと不幸なことなのでしょうか。


---そして、ラストシーン。完璧な終息。
こうして、わたしたちの「故郷」と「青春」は、完全な姿のままで、フィルムの中に封じ込められるのです。




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