17日に放送された「きたなシュラン」は、ノリさんと荻野目ちゃんのなつかし貧乏家母娘コンビが中野界隈を歩きました(ナビゲーターはアンタッチャブル柴田さん)。
商店街にあるコアなおもちゃ屋さんをひやかしたあと、「さっきの店に自分がいたんで買っちゃった」とノリさんが見せたのは・・・出光のCMをしてたころのノベルティ、とんねるずのクネクネ人形!
これ、たまにネットオークションに出品されてて、けっこうなお値段がついてたりするんですよね。けどノリさんが買ったやつは¥1050也。やすっ(笑)
「自分がいた」ってノリさんが言うからノリダー人形かなにかかと思ったら、とんねるず人形だとは。そしてそれを自分で買っちゃうとは!(「仮払いで買いました」と言ってたけど自腹でのご購入でしょう)・・・なんて可愛い(笑)
きたなシュランのお店もすごーくおいしそうで気になったんだけど、やっぱりどうしても、いちばんグッときちゃったのがノリさんのあの場面でした。・・・なんか、いつも妙なところばかり注目してしまって番組スタッフさんに申し訳ない。
タカさんノリさんがそれぞれ単独の仕事をしているときに、ちょっとでも相方のこと、とんねるずのことに話がおよぶとなぜかとてもうれしくなってしまう、という習性が、とんねるずワンフーには少なからずあるのではないでしょうか。ピンでの活躍の場が広がるにつれ、ファンはひそかに、しかしますます激しくその瞬間を渇望するようになった気がする。
他のコンビにもこういうことはあるんでしょうか?おそらくあるでしょうが、とんねるずの関係性に対してファンが求めるものは一種特別なものがあります。
タカさんにはノリさんを、ノリさんにはタカさんを、いつも気にかけていてほしい。いつまでも同じ電気屋さんで家電を買う仲でいてほしい。相方の好物を一番よく知る間柄であってほしい・・・
これらすべて、ファンのわがままな願望でしかないのはよーくわかってるんだけども、でもそんな願望通りの発言や行動をとんねるずがしてくれた時には、非常な幸福と満足を感じてしまうのは致し方ない。
このファン心理の深層には何があるのか?
もしかすると、無意識のどこかで、<コンビ>という関係のこわれやすさを、わたしたちは直感しているのではないでしょうか?
ましてやとんねるずは、血の繋がった兄弟でもなければ、生涯連れ添うことがあたりまえの昔気質の漫才コンビでもない。タカさんも、ノリさんも、それぞれに豊かな才能に恵まれていて、その気になれば必ずひとりでやっていけるに違いない。
そうだとすれば、ふたりが<とんねるず>でいつづける必然性は、どこにあるのか?いつやめたって、おかしくないんじゃないのか?
心のどこかではそれがうすうすわかっているから、そしてそれが実現してしまう恐怖に対する防衛機能として、とんねるずファンは逆に強くコンビ愛を願望するのではないだろうか・・・いつまでもわたしたちの<とんねるず>を守りたくて。
もっと言えば、それはとんねるずや他のお笑いコンビにかぎったことではなくて、わたしたち自身の人間関係への願望の投影でもあるのではないだろうか。
親子、親友、恋人、妻、夫・・・どんな関係性においても、「絶対」ということはありえません。いやむしろ距離が近ければ近いほどうまくいかない関係の方が普通だし、多くの場合それが人間に苦悩をもたらす源泉でもあります。人間関係の無常が、わたしたちに生きる意味を問い、孤独の意味を問う・・・
とんねるずのコンビ愛に魅せられるというのは、もしかしたらそんな人間関係のぜい弱さに敏感な心理の裏返しなのかもしれない、と・・・もちろん、これはわたし自身のことであって、すべてのワンフーのみなさんにあてはまるわけでは決してないのですけれども。
ただ漠然と<コンビ愛>が好きなのであれば、とんねるず以外でもかまわないはずです。
わたし自身にかぎっていえば、とんねるずに感じるのはあたたかいコンビ愛というよりも、むしろ哀愁---若い頃からとんねるずにまとわりついていたセンチメンタリティ---それが、いつの時代もわたしを魅了してきました。
いまの若手コンビの多くは、コンビ愛を大事にすることには確かに長けているけれども、それをさらに深くつきつめた無常感まで感じさせてくれるコンビはまれです。
どんなに無茶やって暴れてても、抱腹絶倒のコントを見たあとでも、「星降る夜にセレナーデ」を歌うとんねるずの姿を見ると、胸の奥の方がじーんと疼いた・・・それができるのは、他の誰でもなく、とんねるずだけなのです。
ピーター・ボグダノヴィッチとの対談の中で、ジェリー・ルイスはマーティン&ルイスをふりかえってこう言っています。
「僕らの笑いの行間には、愛と、いたわりと、そしてセンチメンタルな感情があった」
・・・まるで、とんねるずのことのようです。
商店街にあるコアなおもちゃ屋さんをひやかしたあと、「さっきの店に自分がいたんで買っちゃった」とノリさんが見せたのは・・・出光のCMをしてたころのノベルティ、とんねるずのクネクネ人形!
これ、たまにネットオークションに出品されてて、けっこうなお値段がついてたりするんですよね。けどノリさんが買ったやつは¥1050也。やすっ(笑)
「自分がいた」ってノリさんが言うからノリダー人形かなにかかと思ったら、とんねるず人形だとは。そしてそれを自分で買っちゃうとは!(「仮払いで買いました」と言ってたけど自腹でのご購入でしょう)・・・なんて可愛い(笑)
きたなシュランのお店もすごーくおいしそうで気になったんだけど、やっぱりどうしても、いちばんグッときちゃったのがノリさんのあの場面でした。・・・なんか、いつも妙なところばかり注目してしまって番組スタッフさんに申し訳ない。
タカさんノリさんがそれぞれ単独の仕事をしているときに、ちょっとでも相方のこと、とんねるずのことに話がおよぶとなぜかとてもうれしくなってしまう、という習性が、とんねるずワンフーには少なからずあるのではないでしょうか。ピンでの活躍の場が広がるにつれ、ファンはひそかに、しかしますます激しくその瞬間を渇望するようになった気がする。
他のコンビにもこういうことはあるんでしょうか?おそらくあるでしょうが、とんねるずの関係性に対してファンが求めるものは一種特別なものがあります。
タカさんにはノリさんを、ノリさんにはタカさんを、いつも気にかけていてほしい。いつまでも同じ電気屋さんで家電を買う仲でいてほしい。相方の好物を一番よく知る間柄であってほしい・・・
これらすべて、ファンのわがままな願望でしかないのはよーくわかってるんだけども、でもそんな願望通りの発言や行動をとんねるずがしてくれた時には、非常な幸福と満足を感じてしまうのは致し方ない。
このファン心理の深層には何があるのか?
もしかすると、無意識のどこかで、<コンビ>という関係のこわれやすさを、わたしたちは直感しているのではないでしょうか?
ましてやとんねるずは、血の繋がった兄弟でもなければ、生涯連れ添うことがあたりまえの昔気質の漫才コンビでもない。タカさんも、ノリさんも、それぞれに豊かな才能に恵まれていて、その気になれば必ずひとりでやっていけるに違いない。
そうだとすれば、ふたりが<とんねるず>でいつづける必然性は、どこにあるのか?いつやめたって、おかしくないんじゃないのか?
心のどこかではそれがうすうすわかっているから、そしてそれが実現してしまう恐怖に対する防衛機能として、とんねるずファンは逆に強くコンビ愛を願望するのではないだろうか・・・いつまでもわたしたちの<とんねるず>を守りたくて。
もっと言えば、それはとんねるずや他のお笑いコンビにかぎったことではなくて、わたしたち自身の人間関係への願望の投影でもあるのではないだろうか。
親子、親友、恋人、妻、夫・・・どんな関係性においても、「絶対」ということはありえません。いやむしろ距離が近ければ近いほどうまくいかない関係の方が普通だし、多くの場合それが人間に苦悩をもたらす源泉でもあります。人間関係の無常が、わたしたちに生きる意味を問い、孤独の意味を問う・・・
とんねるずのコンビ愛に魅せられるというのは、もしかしたらそんな人間関係のぜい弱さに敏感な心理の裏返しなのかもしれない、と・・・もちろん、これはわたし自身のことであって、すべてのワンフーのみなさんにあてはまるわけでは決してないのですけれども。
ただ漠然と<コンビ愛>が好きなのであれば、とんねるず以外でもかまわないはずです。
わたし自身にかぎっていえば、とんねるずに感じるのはあたたかいコンビ愛というよりも、むしろ哀愁---若い頃からとんねるずにまとわりついていたセンチメンタリティ---それが、いつの時代もわたしを魅了してきました。
いまの若手コンビの多くは、コンビ愛を大事にすることには確かに長けているけれども、それをさらに深くつきつめた無常感まで感じさせてくれるコンビはまれです。
どんなに無茶やって暴れてても、抱腹絶倒のコントを見たあとでも、「星降る夜にセレナーデ」を歌うとんねるずの姿を見ると、胸の奥の方がじーんと疼いた・・・それができるのは、他の誰でもなく、とんねるずだけなのです。
ピーター・ボグダノヴィッチとの対談の中で、ジェリー・ルイスはマーティン&ルイスをふりかえってこう言っています。
「僕らの笑いの行間には、愛と、いたわりと、そしてセンチメンタルな感情があった」
・・・まるで、とんねるずのことのようです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます