「みなさんのおかげです」のコントで、よくこんな場面がありました。タライが落ちてきたり一斗缶で相方をぶったたいたり、といったいわゆる"お約束"ギャグをやったあと、ノリさんが「やっぱり笑いってのは昔っから変わらないねえ」としみじみつぶやいていたのをおぼえています。
ノリさんの言う「昔っから変わらない笑い」というのは、直接的にはザ・ドリフターズ、コント55号、伊東四朗、小松政夫、由利徹といった喜劇人たち、つまりとんねるずが幼い頃から大好きだったスターたちの仕事を指しているのでしょう。
しかしさらにその源流にはたくさんの先達がいて、その先達たちが日本にかぎらず欧米の喜劇に影響を受けてきたことはまちがいありません。そのとき、言葉や文化の壁をこえて影響をあたえるのは、「見てわかる笑い」つまりフィジカルな笑いであろうことも容易に想像できます。
つまり、笑いとは、ある一定の地域や時代でしか通用しないものもある一方で、時も場所も観客さえもえらばないきわめて普遍的なものもある、ということです。
なぜそんなことを思ったかというと、やはりマーティン&ルイスの話になります。
彼らのテレビ番組The Colgate Comedy Hour(1950-56)をずっと見ていて、とんねるずや「みなさんのおかげです」との共通点があまりにも、あ・ま・り・に・も多く、ちょっと怖いくらいだからです。
ここが似てるあそこが似てると安易な比較論にはしるのは、決していいアプローチじゃないし、そこは慎重にやらなきゃいかん、いかんのだけど、それにしても・・・
まるで、マーティン&ルイスが30年後の日本でとんねるずとして転生したんじゃないか!?とすら思ってしまう。「おかげです」を毎週見ていた頃にとても近いワクワク感と興奮を、Colgate Comedy Hourを見ながら感じてしまう。
もしもわたしが1950年代アメリカのヤングだったら、この番組の放送が楽しみで楽しみで待ち切れなかったことでしょう。
「おかげです」とのデジャヴをこんなにも感じる理由については、また別の記事でくわしく説明したいと思いますが、とりあえずひとことで集約するとすれば・・・
ずばり<スラップスティック>、これだ。
とんねるずのコントも、マーティン&ルイスのコントも、結局それが体をはったドタバタ喜劇であるというところにおもしろさの基本がある。
ノリダーを筆頭とする「おかげです」コントを思い出してもらえればわかるように、とんねるずは、水落ち、顔面パイ投げ、タライに粉、スリッパによるシバキ、乱闘、等々といった、スタジオでやれるかぎりのドタバタを徹底的にやり尽くしました。しかも、若さと運動能力と背のでかさにまかせたもんのすごい迫力で。
とんねるずを乗せた人力車がすごい勢いでひっくりかえり、必死にはい出したノリさんが車夫役の松村匠に思いっきりケリを入れる時、抱腹絶倒しないでいられましょうか。タカさんvsチェッカ-ズトオルの大乱闘に爆笑した思い出を、記憶から消し去ることなどできるでしょうか?いえ、できはしません!
同じことが、マーティン&ルイスのコントにも言えます。わたしがColgate Comedy Hourを見るのをおすすめするのは、そこに言葉の壁がほとんど存在しないからです。つまり「見ればわかる」笑いだからなのです。
たとえば、ディ-ン・マーティンの豪邸にジェリー・ルイス扮する執事が雇われて、失敗のかぎりを尽くすという傑作コント。
アイロンを焦がしてシャツだけじゃなくアイロン台まで突き抜けたり、お客さんのマティ-ニにオリーブをバシャバシャぶちこんだり、大鍋に入れたライスをころんで床にぶちまけたり。その時ジェリーは顔色ひとつ変えず、お客の皿をひったくって床にちらばったライスをどんどん盛り付けていきます。しかも手で!(笑)
ジェリー・ルイスが「こんなんでビビるてめーらが悪いんだよ!」的な横柄さを貫いているのがすばらしい。そしてそんな執事にふりまわされるディ-ン・マーティンも、一緒になって床をころげまわったり、走り回ったりと汗だくでがんばっている。
底抜けコンビのディ-ン・マーティンはクールな二枚目のツッコミ役だとウィキペディアにもありますが、それはまったくの誤解で、コントでは彼も若いジェリーに負けないくらい激しいフィジカルギャグをこなしています。しかも実に楽しそうに!
しかし、ただスラップスティック・コメディをやったというだけでは、とんねるずとマーティン&ルイスの共通性の十分な説明にはなりません。さてここからの内容はいまのところわたくしの印象にもとづく憶測というやつにすぎません。が、とりあえずざっと書いちゃっときます。
このふた組の若いコンビたちは共に、前世代でやや忘れられかけていたスラップスティック/ドタバタ喜劇のジャンルを"復活"させた。
それが彼らの最大の共通点であり功績であるのではないだろうか?
マーティン&ルイスについて言えば、20世紀以前のヴォードヴィルや、1910~20年代の無声喜劇映画によって完璧な様式美にまで高められていたスラップスティック・コメディは、30年代のトーキーの誕生と発展によってほぼ絶滅してしまっていた。しかし50年代には昔のドタバタのおもしろさをおぼえている人々がまだたくさんいた。
もちろん1917年生まれのマ-ティンも、1926年生まれのルイスも、チャップリンやキートンや3ばか大将を観て育ったはずです(ジェリー・ルイスはチャップリンを尊敬しているらしい)。
さらに1949年には、James Ageeという人物がライフ誌に書いた有名なコラムにおいて、チャップリン、キートン、ロイド、ハリー・ラングドンの4人が「偉大な喜劇王」として再評価され、スラップスティック・コメディを見直す気運が高まっていました。
必然的に、マーティン&ルイスの仕事は、スラップスティック・コメディの偉大な歴史の"お約束"を対象化し、たどりなおし、復活させることにあったわけです。もちろん、それを実際にやれるだけの能力と若さと運を、彼らは備えていました。
とんねるずに関しては言うまでもないでしょう。ドリフターズ以前の主に70年代のドタバタの"お約束"をなぞり、ひねり、もっと過激に、もっとナンセンスな笑いにすることを、とんねるずはほとんどみずからの使命のように感じていたはずです。80年代には漫才ブームによってフィジカルな喜劇は衰退してしまっていたからです。
マーティン&ルイスについてある雑誌が組んだ特集記事のタイトルが、"Slapstick with Sex Apeal"というもので、それを見た時、なんちゅーすばらしいコピーだろうと思いました。これ、とんねるずのキャッチフレーズとしていただきたいくらいです(まあいまさらキャッチフレーズもへったくれもないんだが)。
昔ながらのドタバタのお笑いをやりながらも、新鮮で健康的な色気を感じさせる。
それこそまさに、マーティン&ルイスであり、とんねるずです。
「見ればわかる笑い」というものは、いわば集団的無意識として人類が共有しているものかもしれない。
マーティン&ルイスととんねるずが、奇妙なほどに近い次元においてそれを体現する/したコメディアンであると知ることは、衝撃的です。
ノリさんの言う「昔っから変わらない笑い」というのは、直接的にはザ・ドリフターズ、コント55号、伊東四朗、小松政夫、由利徹といった喜劇人たち、つまりとんねるずが幼い頃から大好きだったスターたちの仕事を指しているのでしょう。
しかしさらにその源流にはたくさんの先達がいて、その先達たちが日本にかぎらず欧米の喜劇に影響を受けてきたことはまちがいありません。そのとき、言葉や文化の壁をこえて影響をあたえるのは、「見てわかる笑い」つまりフィジカルな笑いであろうことも容易に想像できます。
つまり、笑いとは、ある一定の地域や時代でしか通用しないものもある一方で、時も場所も観客さえもえらばないきわめて普遍的なものもある、ということです。
なぜそんなことを思ったかというと、やはりマーティン&ルイスの話になります。
彼らのテレビ番組The Colgate Comedy Hour(1950-56)をずっと見ていて、とんねるずや「みなさんのおかげです」との共通点があまりにも、あ・ま・り・に・も多く、ちょっと怖いくらいだからです。
ここが似てるあそこが似てると安易な比較論にはしるのは、決していいアプローチじゃないし、そこは慎重にやらなきゃいかん、いかんのだけど、それにしても・・・
まるで、マーティン&ルイスが30年後の日本でとんねるずとして転生したんじゃないか!?とすら思ってしまう。「おかげです」を毎週見ていた頃にとても近いワクワク感と興奮を、Colgate Comedy Hourを見ながら感じてしまう。
もしもわたしが1950年代アメリカのヤングだったら、この番組の放送が楽しみで楽しみで待ち切れなかったことでしょう。
「おかげです」とのデジャヴをこんなにも感じる理由については、また別の記事でくわしく説明したいと思いますが、とりあえずひとことで集約するとすれば・・・
ずばり<スラップスティック>、これだ。
とんねるずのコントも、マーティン&ルイスのコントも、結局それが体をはったドタバタ喜劇であるというところにおもしろさの基本がある。
ノリダーを筆頭とする「おかげです」コントを思い出してもらえればわかるように、とんねるずは、水落ち、顔面パイ投げ、タライに粉、スリッパによるシバキ、乱闘、等々といった、スタジオでやれるかぎりのドタバタを徹底的にやり尽くしました。しかも、若さと運動能力と背のでかさにまかせたもんのすごい迫力で。
とんねるずを乗せた人力車がすごい勢いでひっくりかえり、必死にはい出したノリさんが車夫役の松村匠に思いっきりケリを入れる時、抱腹絶倒しないでいられましょうか。タカさんvsチェッカ-ズトオルの大乱闘に爆笑した思い出を、記憶から消し去ることなどできるでしょうか?いえ、できはしません!
同じことが、マーティン&ルイスのコントにも言えます。わたしがColgate Comedy Hourを見るのをおすすめするのは、そこに言葉の壁がほとんど存在しないからです。つまり「見ればわかる」笑いだからなのです。
たとえば、ディ-ン・マーティンの豪邸にジェリー・ルイス扮する執事が雇われて、失敗のかぎりを尽くすという傑作コント。
アイロンを焦がしてシャツだけじゃなくアイロン台まで突き抜けたり、お客さんのマティ-ニにオリーブをバシャバシャぶちこんだり、大鍋に入れたライスをころんで床にぶちまけたり。その時ジェリーは顔色ひとつ変えず、お客の皿をひったくって床にちらばったライスをどんどん盛り付けていきます。しかも手で!(笑)
ジェリー・ルイスが「こんなんでビビるてめーらが悪いんだよ!」的な横柄さを貫いているのがすばらしい。そしてそんな執事にふりまわされるディ-ン・マーティンも、一緒になって床をころげまわったり、走り回ったりと汗だくでがんばっている。
底抜けコンビのディ-ン・マーティンはクールな二枚目のツッコミ役だとウィキペディアにもありますが、それはまったくの誤解で、コントでは彼も若いジェリーに負けないくらい激しいフィジカルギャグをこなしています。しかも実に楽しそうに!
しかし、ただスラップスティック・コメディをやったというだけでは、とんねるずとマーティン&ルイスの共通性の十分な説明にはなりません。さてここからの内容はいまのところわたくしの印象にもとづく憶測というやつにすぎません。が、とりあえずざっと書いちゃっときます。
このふた組の若いコンビたちは共に、前世代でやや忘れられかけていたスラップスティック/ドタバタ喜劇のジャンルを"復活"させた。
それが彼らの最大の共通点であり功績であるのではないだろうか?
マーティン&ルイスについて言えば、20世紀以前のヴォードヴィルや、1910~20年代の無声喜劇映画によって完璧な様式美にまで高められていたスラップスティック・コメディは、30年代のトーキーの誕生と発展によってほぼ絶滅してしまっていた。しかし50年代には昔のドタバタのおもしろさをおぼえている人々がまだたくさんいた。
もちろん1917年生まれのマ-ティンも、1926年生まれのルイスも、チャップリンやキートンや3ばか大将を観て育ったはずです(ジェリー・ルイスはチャップリンを尊敬しているらしい)。
さらに1949年には、James Ageeという人物がライフ誌に書いた有名なコラムにおいて、チャップリン、キートン、ロイド、ハリー・ラングドンの4人が「偉大な喜劇王」として再評価され、スラップスティック・コメディを見直す気運が高まっていました。
必然的に、マーティン&ルイスの仕事は、スラップスティック・コメディの偉大な歴史の"お約束"を対象化し、たどりなおし、復活させることにあったわけです。もちろん、それを実際にやれるだけの能力と若さと運を、彼らは備えていました。
とんねるずに関しては言うまでもないでしょう。ドリフターズ以前の主に70年代のドタバタの"お約束"をなぞり、ひねり、もっと過激に、もっとナンセンスな笑いにすることを、とんねるずはほとんどみずからの使命のように感じていたはずです。80年代には漫才ブームによってフィジカルな喜劇は衰退してしまっていたからです。
マーティン&ルイスについてある雑誌が組んだ特集記事のタイトルが、"Slapstick with Sex Apeal"というもので、それを見た時、なんちゅーすばらしいコピーだろうと思いました。これ、とんねるずのキャッチフレーズとしていただきたいくらいです(まあいまさらキャッチフレーズもへったくれもないんだが)。
昔ながらのドタバタのお笑いをやりながらも、新鮮で健康的な色気を感じさせる。
それこそまさに、マーティン&ルイスであり、とんねるずです。
「見ればわかる笑い」というものは、いわば集団的無意識として人類が共有しているものかもしれない。
マーティン&ルイスととんねるずが、奇妙なほどに近い次元においてそれを体現する/したコメディアンであると知ることは、衝撃的です。
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