『失はれた地平線』
(The Lost Horison フランク・キャプラ監督 1937 アメリカ)
「世界にひとつだけの花」に、こんな一節がありますね。
この中で誰が一番だなんて 争う事もしないで
バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で 一番になりたがる?
このメッセージには、生き馬の目をぬくような世の中で生きるわたしたちの殺伐とした心に、訴えかけてくる真実が、確かに、あります。
でも…現実世界を見渡してみれば、他人と比べることなく、一番を目指すことなく生きることは、まず不可能です。
冷戦が終わり、資本主義は勝利した。ように見えます。
しかし現実は、資本主義社会に生きる限り、「特別なOnly One」として真の幸福を実現するなんて無理だということも、わたしたちにはわかっている。
だから、「世界にひとつだけの花」で歌われているのは、現実では実現するはずのない世界、つまり理想郷(ユートピア)なのです。でも考えてみれば、結局どんな芸術にも、ユートピアへの夢想がいくぶんかは宿っているのかもしれません。
『或る夜の出来事』以来、なんとなくフランク・キャプラのフィルモグラフィーを追いかけています。そこでわかったのは、キャプラが徹底した理想主義者だということです。
ということは、彼はある面では、現実に絶望した厭世家でもある、ということでしょう。現実に満足していれば、理想を求める必要もないのですから。キャプラがジェームズ・ヒルトンの小説に描かれた「シャングリラ」に心を惹かれたのも、無理はありません。
<あらすじ>
イギリスの外交官コンウェイ(ロナルド・コールマン)は中国での戦争の混乱から欧米人を脱出させ、みずからも最後の飛行機に乗って他の数人(トーマス・ミッチェルなど)と共に離陸。ところが飛行機は予定とは逆の空路をたどり、雪に閉ざされた中国の山奥に墜落する。そこへ通りかかった隊列に救助され、彼らはシャングリラと呼ばれる谷あいの都市へ。そこは外界と隔絶された理想郷だった…
もともと戦争反対論者だったコンウェイは、シャングリラに不思議ななつかしさを感じます。初めて足をふみいれた時から、自分がずっと前からこの場所を求めていたことを直感します。
シャングリラでは、すべての人々が平和に暮らしている。争いもなく、貧しさもなく、失業もない。気候は常に温暖で、それぞれが自分にできることを追究し、穏やかに明るく生きている。シャングリラでは、年齢さえも生きる障害にはなりません。
はじめは不信感をつのらせていた人々も、次第にシャングリラを理解しはじめます。自らの個性を積極的に生かすこと、それが、シャングリラではすべての人の幸福につながるのだということがわかってきます。
しかしただ一人コンウェイの弟だけが、「文明社会」に戻ろうと主張し、兄を無理矢理シャングリラから連れ出します。ラマ僧(H.B.ワーナー)の言うことは、すべてでたらめだと兄を説き伏せて。しかし、厳しい吹雪の中、ふたりはラマ僧が正しかったことを知る…。
シャングリラは、世捨て人の楽園などではありません。最高僧は外界で起こるすべての事象についての正確な知識をもっています。そして、シャングリラの思想こそが、現実のカオスを救う唯一の道だとコンウェイに説くのです。
シャングリラを律する唯一のルール、それは「人に親切にせよ」。他には何もありません。
でも、人間が幸せになるために、他に何が必要でしょう?
戦争、不正、腐敗、堕落、無益な競争、恐怖…に満ちたこの世界を見ると、わたしは心のどこかで、シャングリラのような世界を夢想してしまう。そんな世界が、もしも本当に実現すれば、それはどんなにかすばらしい世界でしょう。苦悩も不安もなく、虚栄のためでもなく、人は純粋に自分の愛することに打ち込めるのです!
コンウェイの、焼け付くようなシャングリラへの思慕、そこへたどりつきたいという執念は、わたしの心を深く動かしました。たとえそこにたどりつけなかったとしても、そんな強い感情に身をゆだねることができただけでも、幸せだと言えるのではないだろうか?…と。
『失はれた地平線』について、「行き過ぎた理想主義」との批判もあります。でもなぜかわたしには、他の作品(たとえば『我が家の楽園』)よりもずっと普遍的な映画だと思えるんです。
もっとも、この映画の結論は、文字どおりシャングリラを実現することだけではありません。人が、それぞれにとっての「シャングリラ」を見つけること、そのために希望を失わず進んでいこう、とキャプラは言っているのだと思います。
公開時132分だったフィルムは、興業収入がふるわなかったことや太平洋戦争の開戦など、歴史にほんろうされ切り刻まれて、110分ほどしか残っていませんでした。1970年代後半から、その修復と保存作業が行われています。
失われたフィルムを探し求める人々の姿は、コンウェイがシャングリラを追い求める姿にかさなって、この作品のもつ不思議な力を感じさせます。20年以上にわたる修復の経緯については、DVDの特典映像で詳しく知ることができます。
(The Lost Horison フランク・キャプラ監督 1937 アメリカ)
「世界にひとつだけの花」に、こんな一節がありますね。
この中で誰が一番だなんて 争う事もしないで
バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で 一番になりたがる?
このメッセージには、生き馬の目をぬくような世の中で生きるわたしたちの殺伐とした心に、訴えかけてくる真実が、確かに、あります。
でも…現実世界を見渡してみれば、他人と比べることなく、一番を目指すことなく生きることは、まず不可能です。
冷戦が終わり、資本主義は勝利した。ように見えます。
しかし現実は、資本主義社会に生きる限り、「特別なOnly One」として真の幸福を実現するなんて無理だということも、わたしたちにはわかっている。
だから、「世界にひとつだけの花」で歌われているのは、現実では実現するはずのない世界、つまり理想郷(ユートピア)なのです。でも考えてみれば、結局どんな芸術にも、ユートピアへの夢想がいくぶんかは宿っているのかもしれません。
『或る夜の出来事』以来、なんとなくフランク・キャプラのフィルモグラフィーを追いかけています。そこでわかったのは、キャプラが徹底した理想主義者だということです。
ということは、彼はある面では、現実に絶望した厭世家でもある、ということでしょう。現実に満足していれば、理想を求める必要もないのですから。キャプラがジェームズ・ヒルトンの小説に描かれた「シャングリラ」に心を惹かれたのも、無理はありません。
<あらすじ>
イギリスの外交官コンウェイ(ロナルド・コールマン)は中国での戦争の混乱から欧米人を脱出させ、みずからも最後の飛行機に乗って他の数人(トーマス・ミッチェルなど)と共に離陸。ところが飛行機は予定とは逆の空路をたどり、雪に閉ざされた中国の山奥に墜落する。そこへ通りかかった隊列に救助され、彼らはシャングリラと呼ばれる谷あいの都市へ。そこは外界と隔絶された理想郷だった…
もともと戦争反対論者だったコンウェイは、シャングリラに不思議ななつかしさを感じます。初めて足をふみいれた時から、自分がずっと前からこの場所を求めていたことを直感します。
シャングリラでは、すべての人々が平和に暮らしている。争いもなく、貧しさもなく、失業もない。気候は常に温暖で、それぞれが自分にできることを追究し、穏やかに明るく生きている。シャングリラでは、年齢さえも生きる障害にはなりません。
はじめは不信感をつのらせていた人々も、次第にシャングリラを理解しはじめます。自らの個性を積極的に生かすこと、それが、シャングリラではすべての人の幸福につながるのだということがわかってきます。
しかしただ一人コンウェイの弟だけが、「文明社会」に戻ろうと主張し、兄を無理矢理シャングリラから連れ出します。ラマ僧(H.B.ワーナー)の言うことは、すべてでたらめだと兄を説き伏せて。しかし、厳しい吹雪の中、ふたりはラマ僧が正しかったことを知る…。
シャングリラは、世捨て人の楽園などではありません。最高僧は外界で起こるすべての事象についての正確な知識をもっています。そして、シャングリラの思想こそが、現実のカオスを救う唯一の道だとコンウェイに説くのです。
シャングリラを律する唯一のルール、それは「人に親切にせよ」。他には何もありません。
でも、人間が幸せになるために、他に何が必要でしょう?
戦争、不正、腐敗、堕落、無益な競争、恐怖…に満ちたこの世界を見ると、わたしは心のどこかで、シャングリラのような世界を夢想してしまう。そんな世界が、もしも本当に実現すれば、それはどんなにかすばらしい世界でしょう。苦悩も不安もなく、虚栄のためでもなく、人は純粋に自分の愛することに打ち込めるのです!
コンウェイの、焼け付くようなシャングリラへの思慕、そこへたどりつきたいという執念は、わたしの心を深く動かしました。たとえそこにたどりつけなかったとしても、そんな強い感情に身をゆだねることができただけでも、幸せだと言えるのではないだろうか?…と。
『失はれた地平線』について、「行き過ぎた理想主義」との批判もあります。でもなぜかわたしには、他の作品(たとえば『我が家の楽園』)よりもずっと普遍的な映画だと思えるんです。
もっとも、この映画の結論は、文字どおりシャングリラを実現することだけではありません。人が、それぞれにとっての「シャングリラ」を見つけること、そのために希望を失わず進んでいこう、とキャプラは言っているのだと思います。
公開時132分だったフィルムは、興業収入がふるわなかったことや太平洋戦争の開戦など、歴史にほんろうされ切り刻まれて、110分ほどしか残っていませんでした。1970年代後半から、その修復と保存作業が行われています。
失われたフィルムを探し求める人々の姿は、コンウェイがシャングリラを追い求める姿にかさなって、この作品のもつ不思議な力を感じさせます。20年以上にわたる修復の経緯については、DVDの特典映像で詳しく知ることができます。
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