皆さま、今晩はお元気でしいらついらっしゃいますでしょうか。
ラーマクリシュナさんの奥様のお話をしましょう。
私はこの方のように生きたいと願って参りました。決して、霊性を皆の前では見せることなく、朝は三時に目覚め、ガンジス川で沐浴をし瞑想をされてから。クリシュナさまや弟子達の朝食を用意され、片付けが終われば、ご自分のお部屋で神に祈りをあげられるそして昼食の用意や参拝者のお世話をされたようです。
ある弟子の質問にマザーは応えてられました。
弟子:ホーリー・マザーをグルとし、その祝福を受けた者は、霊性の修行を積む必要があるのか。
マザー:そうかもしれませんね。でも、要点は、貯蔵室に並べられたさまざまな食料品も料理されねばならないということです。早く料理をした者は早く食事にありつくのです。朝を食べられる人もいれば、夜になってから食べられる人もいます。また調理を怠るなら断食せざるを得なくなるでしょう。熱心に修行するほどに、早く神に至ることができます。〜中略〜たとえ修行をしなくても、結局は神に至ります。必ずそうなります。しかし、祈りや瞑想を怠り、無為に時間を過ごすならば、神の実現には長い時間がかかることでしょう。
自分の苦しみ、悲しみ、貧困、心配事、愚痴…。あぁ…。
本当に神を悟りたい人がどれほどいるものでしょう。信仰や神への憧れを語ってみせても、ほんの少しこの世の喜びが得られると、満足してしまうに決まっています。そして「ああ、神はなんてお優しいのだ!」などと言うのですよ。(この世で得た満足に対して)
結構、私たちは成果を求める事が多いと思いませんか。ちょっと満足できる進み方ができた時、神を忘れ私が努力した結果だと言うのですよね。言わなくても思っていますよね。実は成果は神から頂いた恩寵だと思い喜ぶのです。しかし、神からの恩寵はそのような小さな事柄ではないのです。あなた自身の目覚めなのです。私も小さな成果で喜んでいる場合ではないと思うようになりました。
信仰って、本当はあらゆる事柄を捨てる。自己放棄をしてはじめて、神を感じられるのでしょう。その為には食料品があっても調理しなければ食べられないように、日々、熱心に求めらものを思い続けることです。
おやすみなさい💤