~ いるかしあわせ宅配便 ~

ばあちゃんのひとりごと

自分を受け入れる

2008-01-28 01:25:00 | いるかこもれび助産院

いるかくらぶで開催されているいるか広場では
ヨーガをベースとした日常のあり方などを紹介していただき、
「心」や「私」のエッセンスに触れながら共に学んでいます。

いるか広場で話し合ったテーマをご紹介します。

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テーマ(自分を受け入れる)
いるか広場(2008年1月28日11時より)

「自分自身を受け入れることが大切。そうしないと前に進めない。」

と言うことを学びましたが、

私は、その「自分自身を受け入れること。」ができずに、
前に進めない状態にあるようです。

受け入れるとはどういうことか?
どうすれば受け入れられるのか?がわからないのです。

前回、みなさんのお話を聞き、

「できていないのは自分だけではないか」

と急速に自信をなくし、殆ど話が聞こえない・わからない状態に
なってしまったにもかかわらず、「わからない」と言えませんでした。

そこで今回、正直に「わからない」と言ってみようと思いました。
そして、皆さんに意見を伺ってみようと思いました。

私は、大学4年生の時に研究室の先生にゼミの度に
「もう大学を辞めたい」と思うほどに攻撃されました。

卒論のテーマを決めるにあたり、
どんな研究をしたいかを各自発表するのですが、
明確にやりたいことのない私には、何か発言する度に、

「それで?」「それから?」「なんで?」

と答えられなくなるまで問い詰められることが、
また私に対してだけ執拗だったことが、「攻撃」と感じられたのです。

就職すると、仕事を与えられず、
いつのまにか「できないヤツ」のレッテルを貼られ、
干され、それでも6年半居座り続けた末、逃げ出しました。

この数年間で、自分のことを決定的に
「何をやってもダメなヤツだ」と思うようになりました。

できないことが悔しい、
それを指摘されることが悔しい、

しかし、どうすればできるのか、
いったい自分は何をすべきなのか、

全くわかりませんでした。

ケリをつけようと、その場を離れたつもりでしたが、
今思うと問題をそのままにして逃げただけで、
何も解決できていないのかもしれません。

「問題を放置せずにその時に原因を探ること(前回の文章より引用)」
ができていませんでした。

このことは、私にとって苦ですが、
大きな学びのチャンスであると理解し、
克服して行きたい。

自分自身とは、

いつか朽ちる肉体ではなく、常に動揺変化する心でもなく、

それらを単に見ている純粋な意識であることを知り、

「自分はダメなヤツだ」と苦しむ心を調教できるようになりたい。

自分の心を冷静に見ることが、

「自分自身を受け入れる(「本当の自分自身」が「自分の心」を受け入れる)」

ことにつながると思います。

自分に自信が無い、
自信が無いのは愛されている実感が無いから、と思っているが、

「愛とは捧げること、自らを他者の幸せのために与えること」であり、

自らの苦しみを避けるためには他者を苦しめてはならず、
自らの幸いを招くためには他者の喜びに奉仕することです。

自分の好きでないこと・他者も嫌なことを進んですることによって、
今までの「好き嫌い」「良い悪い」の観念がぐらついてくる。

それを実行していくことで、自然に努力無く行うことができるようになり、
「良い悪い」関係なくすべて平等になり、まったく気にならなくなる。

本当に他者のために行っていくことで、無知やエゴをなくしていくことになる。

私は、一つの方法として、次のことを実行して行きます。

・アーサナを行うことで、呼吸が長くなり、心が動き回ることがなくなり、
「苦しむ心を調教して冷静に見る」を実践することができる。
これから、そういう気持ちでアーサナに取り組んで行きたいと思います。

・小さなことでも、自分の好きでないこと、他者の嫌がることを、
進んでやってみるようにする。そうすることで無知やエゴをなくし、
純粋な心で満たされると思います。


ストレスの原因は何処からくるのでしょうか

2008-01-25 01:26:00 | いるかこもれび助産院

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テーマ(ストレスの原因は何処からくるのでしょうか)
いるか広場(2007年12月7日11時より)

何かが起きたとき誰かのせいにしてしまうこと、
誰かが何かをしてくれなかったから、
と思ってしまうことがあるかもしれません。

私は20代の中ごろまでいつも何かに追い立てられるように資格をとったり、
趣味に没頭したりしていました。
しかしどれも長く続かず、飽きては次のことへ・・・を繰り返していました。

ある時、きっかけはそれ程大きいことではなかったと今なら思えるのですが、
仕事のストレスからまるで電池が切れたように外に出ることも
人に会うことも嫌になり、会社も辞め家に引きこもりがちになりました。

その頃のしんどさは、まるで光の見えない海のそこを歩いているような気持ちでした。

そんな苦しいけど何をしていいかもわからない時に、
前に進む手助けをしてくれたのがそのとき通い始めた整体の先生でした。
(その頃の私はむくみが激しく、母にすすめられて整体に行くことにしたのです。)

そこから、私をそこまで追い詰めた本当の原因探しが始まりました。

何せ20年以上考えたこともありませんでしたから、簡単には見つかるはずもありません。

壁にぶち当たっては原因をほじくり、泣きわめいては進んでまた立ち止まりを繰り返し、
ようやくたどりついた答えが母へのコンプレックスでした。

母に誉められたい、注目されたいという思いです。

私を育てた頃の母はとても忙しく、ストレスも膨大で辛い状態にありました。
もちろん虐待を受けたことはありませんが、私にばかり集中している暇はなかったでしょう。

自然と私は母に迷惑をかけないよう顔色を見、聞き分けの良い子になりました。
しかし、誉められたい、注目されたいという思いを知らない間につのらせていたのでしょう。

何かに打ち込んで資格をとれば誉めてもらえるのでは?
活動的にしていれば(母は活動的な人だったので)誇らしく思ってもらえるのでは?
と特別したくもない事までしていたような気がします。

その事に気づいたとき私は自分自身の空っぽさに嘆き、
子どもの頃母がもっと私を見ていてくれればこうならなかったのでは?・・・
と母を責めました。

そんな私にその整体の先生は自分でそれに気づいたことを誉め、
しかし、母を責めるのではなく受け入れることを教えてくれました。

受け入れて、一から空っぽではない自分になるために歩き始めること、
母のせいではなく問題は自分の自信の無さだということを教えてくれました。

この経験から私が大事だと思うことは3つあります。

まずストレスや問題を放置せずその時に原因を探ること・・・
放置しても問題は消えないし、消えたように思えてもまた形を変えて出てくるから。

そして受け入れること・・・
その現実が認めたくないことでも受け入れるしかないのです、
受け入れないと前に進めないから。

最後に答えは自分自身の中にあるということ・・
結局は誰のせいでもなく、自分で考え自分で行動しなくては何も変わらないから。

今私には息子がいて毎日成長していく様子に日々幸せを感じています。

そんな今の私があるのは、整体の先生の助けを借りて

問題を探り・受け入れ・母のせいではなく
自分の中に答えを見つけたからだと思っています。

そして、これから息子が自分の力で自分らしさを見つけていけるよう、
見守っていければ・・・と思っています。


無償の愛

2008-01-18 01:29:00 | いるかこもれび助産院

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テーマ(無償の愛)
いるか広場(2007年8月27日11時より)

愛という言葉を聞くと、貴女は何を感じますか。

恋人のこと・・・両親のこと・・・我が子のこと・・・兄弟姉妹・・・ペット・・・趣味・・・・
色んな愛がありますね。

また我が子に対してはどうでしょう・・・

昔から我が子に対して、母は無償の愛を注ぐと言われていますが、

言葉としては理解出来る無償の愛 報酬・見返りのない愛
とは一体どのようなものなのでしょう。

赤子の誕生は、暑い日も寒い日も10ヶ月を母の胎内で
両親の愛・プラーナを受けて過ごし、オギャーと産声をあげて
この世に姿を現しますが、赤子は授かりものだとも言われていますね。

一体誰から授かっているのでしょう・・・

赤子は天・神・・・からの一時 預かり。
赤子も一人の人間であり、彼・彼女もまた彼・彼女の道を歩んで行くのでしょう・・・・
ちょうど私たちが歩いてきているように。

つまり母は赤子の成長の手助けをさせてもらっているというのが、真実のようです。

愛する子どもがちょっとくしゃみをすれば、風邪をひいたのでは・・・、
すこし機嫌が悪いと病気ではないかと、心配でおろおろしてしまう。
母は寝る時間もない程我が子に付きっきりです。

確かに傍には居ますが、我が子が何を訴え、何を伝えようとしているのか・・・
母である私私はじっくりと我が子の目を見て、訴えを聞こうとしているだろうか?

訴え方を知らない赤子は、全身全霊で私に語りかけています。

赤子は泣くのが精一杯の意思表示であり、
当面は赤子に課せられた生きるための仕事なのです。

けれどオギャーによって私の心は右往左往し、
その不安定な心が次の瞬間の行為を決めていく。

オギャーオギャーと泣き叫んでいる赤子を「大丈夫・大丈夫だよ」と
母は全身で受け止め抱きしめているだろうか。
母と子が同じ目線、思いでいるだろうか。

お互いが分かり合えれば、赤子は泣き止み、安心の中でぐっすりと眠ることでしょう。
単純な行為ですが赤子にとっては、とってもとっても重要な行為の一つなのです。

時間がないから、とか今は忙しいからとか言わずに、
今しか出来ない愛情の伝え方を赤子同様に母も共に学び、愛を育てていきましょう。

共に相手の身になって、何をすれば喜んでもらえるのだろうか・・・・
何に安心を得るのだろうか・・・

愛について考え、行為し、また考える。
そして何もしないでも、何も語らなくても、傍にいるだけで共に嬉しい。
母と子はそれぞれの笑顔が嬉しくて、安心を覚えるのでしょう。

母は赤子の成長の手助けをさせてもらい、そして母もまた心の成長を
させてもらっているというのが、真実のようです。

私たちも両親からたくさんの愛をもらい、成長してきました。

彼らもまた今の私たちのように、思い悩みながらも温かく私たちを
見守って下さっていたことでしょう。

そして今もなお見える形・見えない形で愛を注いでいて下さいます。

母親・父親という役割はそれぞれにあると思いますが、
親の前に一人の人間として、雨の日も風の日もさま変わりする天候の中で、
変わらぬ私でいられたら、私も私の回りもきっと笑顔で楽しい日々のことでしょう。

計らいのない愛、傷つけない・傷つかない真の愛を、真の愛のあり方を共に学び、
私が私の心を見つめ、笑顔の私でいられますように。

笑顔はたった今から、誰にでも出来る最高の行為です。
我が子の笑顔が私を癒してくれるように!


幸せですか、幸せをみつけませんか

2008-01-04 01:33:00 | いるかこもれび助産院

いるかくらぶで開催されているいるか広場では
ヨーガをベースとした日常のあり方などを紹介していただき、
「心」や「私」のエッセンスに触れながら共に学んでいます。

いるか広場で話し合ったテーマをご紹介します。

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テーマ(幸せですか、幸せをみつけませんか)
いるか広場(2007年1月29日11時より)

自分自身を信じていますか。
あなたの心はいつも何を願っていますか。

いつもあなたを守りたいと心の奥にもう一人の私がいるのです。

もう一人の私はいつも悲しい私、辛い私、嬉しい私、優しい私、頑張る私、

私全部をいつも見守っています。

だから、信じて任せて楽しく生きるのです。
一日一回はほんとうの私と語り合ってみましょう。

もう一人の私を宗教では仏性と言ったり、神さんだったり、
まごころと言ったりします。
ヨーガでは真我(アートマン)と言います。


あなたが街角で素敵な服を見つけました。欲しくてたまりません。
もうすぐボーナス、ボーナスが入るとすぐに買いました。
暫くは鏡の前で服着たり脱いだり楽しい日々が続きます。

しかし、また,街角で素敵な服に出会いました。
もうボーナスも無くなり、買うお金がありません。

何故私にはお金がないのかと悔やみ、もっと沢山のお金が貰える仕事に
変わる事にしました。そのお金で服が買えました。

また、ある日素敵な服がありました。

ただ繰り返すだけなのです。

このような事があなたにはありませんか。

止めどなく続く欲望、そして、欲しいものを渇望する自我、
手にいれた物への執着、それを失いたくない、
失う不安から来る憎悪、死に対しての恐れが身体への固執、
いつまでも生きていたい生命欲。これらはすべて無知故におこります。

すべての原因は無知にあります。

無知はこの果物は知っていますかと、ドラゴンフルーツを見せましたが、
日本本土にはない果物でした。知らないし見たこともないと答えました。

これは無知でしょうか、

これは普通のその果物知らないということで、ここで言う無知ではありません。

仏教では、諸行無常と言いますが諸々の行いに常が無いということです

ですから、綺麗な花もいつしか枯れて、綺麗な花の形は無くなります。
また、私たちも老いていきます。

気持ちはどうでしょうか、

先に述べたように次々と服の好みが変化し、更にいい服を渇望していましたね。

こころ、感情も、肉体と同じように変化しているのです。

そのことに気づかない、これが無常を常と思う無知。

不浄を浄と思う無知。

苦を楽と思う無知、

自己ならざるものを自己(ほんとうの自己は奥に在る優しい私なのに、
自我の私を自己と勘違いする)と思う無知、

四つの無知は私たちを惑わし苦をつくり、日々知らないこと(無知)が
幸せになりたいと思い続けることになります。

子どもの幸せを願わないお母さんはいないと思います。

だから、悩み心配して、あれこれと取り乱していませんか。
無知なる自己を知り、赤ちゃんは何を欲しいと懇願していますか、
お母さんの自我の自己で観ないで、優しい自己(アートマン)で観てあげませんか。

一緒に育ち合いましょう。

見つめて、触れて、撫でて、抱っこして赤ちゃんを感じて、
赤ちゃんが懇願していることに気づきましょう。あなたの無知は浄化されるでしょう。

子育ても生きることもすべて同じです。

優しい自己を感じて信じて生きれば幸せは自分自身の中にあるのですから、
すべての答えは、あなたの奥にあるほんとうの私(アートマン)にあります。