This is me.

- 無用の用 -

過程2

2008-12-03 09:49:09 | Weblog
モリログに昨日書いた「過程」に少し関係しているな、と思い興味深かったので載せてみる。タイムリーにこういう話題が出るのってちょっとなんか嬉しい感じがする。(ミーハーだな


『 メールでときどき悩み相談のような内容をいただく(1日に10通くらいかな)。もちろん、広範囲で、ちょっとした日常のことから、事件性、犯罪性のあるものまで。僕は特に誠実に答えてはいないし、もちろん、森博嗣にそんなことを期待してはいないと思うけれど、しかし、誰かに話したくなる、という気持ちは共通しているし、理解できるところだ。返答を聞くことよりも、話すこと、話す決意をしたこと、書くために整理をしたこと、に意味があるだろう。アウトプットをすることで自分自身が救われる、という現象は、教会の懺悔もそうだし、精神医療でもそうだし、心理学の事例にも頻出するものだ。
 辛いことを抱えている時間は、本当に辛くて、誰にも話せない。しかしあるとき、それが人に話せるようになる。話せる、ということが、既に問題が大部分解決している証拠かもしれないし、少なくとも、解決したいという決断の表れでもあるのだ。なんとなく、話すことで辛さがシェアされるように感じる。聞く方にしても、少しはその辛さを分担してあげたい、と思うもの。しかし、実のところ、個人の悩みは、他人に分担できるものではない。その錯覚さえ、自分の中の処理である。
 それから、僕が書いたことを読んで、それで救われた、決断できた、楽になった、というようなメールをいただくことも多いのだけれど、繰り返すが、それも僕の力ではない。本人の機能であり、能力によるものだ。
 河原に落ちていた石を拾って、それを投げた。石は水面を跳ね跳んで、結果的に価値ある光景を見ることができた。楽しかった。それはその石のおかげだ。その石がなければ、できなかったことだ。たしかに、石の形に向き不向きはあるだろう。しかし、石を拾ったのも、選んだのも、それを投げたのも、そして面白いと感じたのも、本人である。その石でなくても、いくらでも投げるものはあったはず。石のおかげではなく、投げてみようと思った、面白いと感じることができた、自分のおかげである。きっかけとは、河原の石くらい、どこにでもある。ただ、一度使ったら、もう同じ石は見つからない。』

MORI LOG ACADEMY
2008年11月29日(土曜日) 【HR】 石のおかげではない
 より。


なるほどなあ。 確かに、相談することによって、大半の部分が解決するときもある。相手の答え云々ではなく、もう既に答えは決まっているのだけど、それを出すことによって、相手に背中を押してもらうというか。
結局のところ、話した自分、考えた自分、答えを出した自分、というものに意味があるのか。
人は人との間で生きているから人間なのだ、という言葉を思い出した。